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2009年2月7日(土) 七日目の総括 [アジア]

2592648午後7:00 ルンビニ・ホッケ・Hotelに到着。
暗くはなっているけど、久しぶりに早めの帰宿となって、ホッとした。

まだ、ネパールに来たという実感はないが、インドが終わってしまった…という寂しさはある。
そして明日で、Guideのジャマールさんと、バスのDriverさん&助手さんともお別れせねばならない。
思い返せばインドに来た当日、初めてインドのバスに乗った時はいろいろ驚かせてもらった。
外観は日本のバスとさして違いはなかったが、中に入ってまず驚いたのが、匂いである。
目にしみるほど焚かれた御香の香りと煙が車内に充満していて、思わず窓を開けて換気したほどだ。
それから日本のバスと違って、運転室と客室とがガラス窓とドアで仕切られていて、別空間(別室)になっているうえに、客室はエアコンがきくが、運転室にはエアコンがない。
これは別にカースト的な差別ではなく、インドでは目視以外に、耳と口も使って運転しなければならないので、運転室の窓は常に全開にしておかなければならず、エアコンがあったとしても意味がないのである。
例えば、前方の障害物(自動車・二輪車・人・家畜)に、「どけ!どけ~っ!」と声をかける。
もちろんクラクションはあるが、どの車もやたらめったらに[演劇]ビービー・ブーブーと鳴らすので、誰もがクラクションの音には慣れっこになってしまって、まったく効き目がないのだ。
だから助手さんが窓から乗り出して大声で「そこ退け、そこ退け」と声で促す。
また、Driverさん自身も後方からの追い越しの為のクラクションを聞き分けなくてはならないので、窓を開けて耳の神経も集中しておかなければならない。
縦横無尽に走り回る車や人や牛などを避けながら、五感をフル活用した運転は、さぞや疲れるだろうに、ここ五日間、朝から晩までズ~~~ッと一人で、1,200kmを越える距離を運転をしてきたDriverさんには脱帽である。
助手さんもバスに同乗はしているが、彼はあくまでも助手であって運転手ではない。
助手さんは、最低三年間、Driverさんと寝食を共にし、運転以外でDriverさんの手足・耳口となって働きながら、‘運転の感’を磨くのだそうだ。

もう一つ驚いたのは、Driverさんの待遇である。 やはりここにはカーストという問題がある。
Driverさんは、旅行社の仕事を担っていながら、Hotel泊まることも許されず、毎晩バスの後部座席で寝ているそうだ。 助手さんにいたっては、もちろんそれ以下の待遇である。
また、HotelやRestaurantでの食事も許されず、余り物をもらっては食べているらしい。
近年の法改正でカースト制度は廃止されているとはいえ、未だに根強く残っているこの現状には驚くばかりであった・・・・・

2592647さてさて、Driverさんたちのそんな境遇を聞きながらも、「へ~ぇ、そ~なの…」と、まったく他人事で処理してしまう冷酷な私たちは、Check Inを済ませて部屋へと向かった。

中庭を囲むように建てられた平屋建て長屋造りの客室に入ってビックリ!した!!
「今日のHotelは、和室だよ!」とは聞いていたけど、ここまで立派な日本造りだとは思わなかった。
10畳と6畳の和室の二間続きで、縁側と廊下、それに何故か二つのトイレと和式の深い風呂がある。
私とMRさんは大喜びで、畳の上で手足を伸ばして、緑茶などを頂きながら、夕食に出掛けるのも面倒くさいと思うくらいに、すっかりくつろいだ。

Dinnerはもちろん日本食! これにはチョット残念だった・・・
これで益々ここがネパールだという実感が薄れてしまう。
味の方は、インドの法華Hotelの方が、断然おいしかった!!

夕食後はみなさんshopping Timeを過ごされたようだが、私は一人お部屋に戻って日記をメモる。
今日の一言は、「インドに来る前から意気込んでいた仏法は、すっかり影も形も無い」である。

なぜか、「すごくインドに帰りたい」という思いが溢れて、ペンが進まなかった。

2009年2月7日(土) インド ―(国境越え)→ ネパール [アジア]

ピプラーワー(カピラ城跡)から15分ほどバスで走って昼食会場となる、ロイヤル・リトリートに到着。
ここは以前、マハラジャ(昔の地方領主)が虎狩り用の別荘として使用していた建物で、現在はHOTEL兼RESTAURANTに改装利用されている、ちょっとしたコテージ風のGuest Houseだ。
リトリート内には、DiningroomやSittingroomの他に、それぞれ趣の違ったGuestroomが7,8部屋あって、虎狩り用の別荘らしく、館内のいたるところにトラの剥製が飾ってあった。 
((^_^;)剥製さえなければ、けっこう良い所なんだけどね~・・・・・)

[レストラン]Launchは、インド料理のBuffet
今回の旅日程では、これが本場インドで食べられる最後のインド料理になるので、食欲は無かったけど頑張って味わいながらいただいた。
でも、拓郎さんお勧めのカスタード・フルーツは、頑張らなくてもおかわり出来ちゃう位に美味しかった[揺れるハート]

2590788食事が終わってDrink代金のおつり待ちをしていたら、庭の方からにぎやかな声が聞こえてきた。
「ゾウだよ! ゾ~さんが来たよ!!」 とMemberのはしゃぐ声!
会計を済ませて外に出てみると、一頭の子ゾウがMemberを二人ずつ乗せて、庭を行き来していた。
三歳になるオスのマリュ君と言うそうだ。
私もMemberの元へ行くと、ちょうどOTさんがゾウの後方から落ちそうになっていて、必死でゾウに取り付けられた手綱にしがみ付いていたOTさんを見ながら、「83歳で、あの握力はスゴイな~!」と感心させられた (^^ゞスゴイ
そのふた組後にゾウに乗ったHMさんも 横からずり落ちそうになって半泣き状態のまま手綱にしがみついていたが、それを見て、ゾウの調教師があわてて助けようとしているのに、「あらら~」と言いながらのんびりと傍観しているMemberとの、その温度差が見ていて微妙に笑えた(^.^)…
私も挑戦[exclamation] KHさんとのゾウ乗り体験で、昔の貴族気分を味あわせてもらった[かわいい]

午後3:40 ロイヤル・リトリートを後に、いよいよネパールへ向けて出発だ!
のどかな田園風景を眺めている内に、風邪薬の副作用で再びウトウトしてしまい、インド最後の風景をカメラに収めることが出来ず、すご~くショック・・・・・(T_T)/~~~

2590789午後5:20 国境の町スナウリに到着。
にぎやかな商店が立ち並ぶ中に、‘INDIAN CUSTOMS’という看板が立っている。
この看板がなかったら、まったく見分けのつかないような店舗の並びに、Immigration Controlはあった。
国境と言っても、開閉式のGateも遮断機も無いので、現地の人は特に手続もなく勝手に行き来している。

私たちはバスに待機したまま、拓郎さんとジャマールさんだけが出国手続に向かう。
その間に、一人のインド兵が銃を肩にかけたままバスに乗り込んできて、一瞬Memberに緊張がはしったが、兵士は何を見るでもなく、バスの通路を一往復して出て行った。
兵士が降りると、拓郎さんとジャマールさんを置いたまま、バスはソロリソロリと歩く速度で徐行しながら、Immigration Controlから50mほど先にある、インドの国境を示すArchをくぐりぬけた所で停車した。
前方にはWelcome to NEPALと書かれたArchがある。
ということは、この30mにも満たない中間の町は、インドかネパールかどちらに属しているのだろう?
何をするでもなくバスはしばらく停車した後、再びソロリソロリと動き出し、ゆっくりとネパールの国境を示すArchを通り抜けた。
ということは、ここはもう国境を越えたネパール側の町、バイラワということである。

インド側のスナウリもネパール側のバイラワも、呼び名が国によって変わるだけで、同じ町なのだそうだ。
つまり、町の中心より南側がインド領で、北側がネパール領になるということらしい。
しかし、この一本道に並んだ商店は、インド側の華やかさに比べて、ネパール側は質素そのものだった。
意識しなければわからないままに越えてしまいそうな国境だが、よく見るとやはり違いはあると感じた。

国境を越えたバスは20mほど先で停車した。
拓郎さんとジャマールさんがインドで下車してから20分が経過した頃、今度はネパール兵が一人、インド兵と同様に銃を肩にかけてバスの中を一往復して降りて行った。
今度は緊張というより、鬱陶し~な~という感じで兵士を見送る。

2590790辺りが暗くなってきて、露店にろうそくの炎が揺らめきだした。
5日前、インドに入国した時、入国審査で空港職員に賄賂を要求されたが、ここでもやはり同様の嫌がらせを受けているのか…、 拓郎さんもジャマールさんも一向に戻ってこない。

ここで気分転換! とばかりに、S先生が歌を歌いましょ~[るんるん]と提案された。
今朝、私が始めて耳にした三帰依文の曲から始まって、懐中電灯で手元の聖典を照らしながら、20分ほどみんなで仏教歌を唱歌した。
私にとってはどれもこれも、初めての曲で、初めての体験だったけど、S先生やMK先生が隣りの席に来て歌ってくださったので、何とかついて歌えた。[カラオケ]

1時間近くたって、ようやく拓郎さんとジャマールさんがバスに帰ってきた。
ここから宿までは20kmほどで着くという。  今日こそは早くHotel入りしたいものだ。

2009年2月7日(土) シュラーヴァスティ → カピラ城跡(インド領・ピプラハワ) [アジア]

2590785シュラーヴァスティのサヘート(祇園精舎)の出入り口では一人の少年が、そしてマヘート(舎衛城)の出入り口では二人の少年らが同じ曲を歌っていた。
私にとっては初めて耳にするメロディーであったし、歌詞の意味もわからなかったのだが、何だかすごく耳につくというか、不思議と気になったので、バスに乗ってからS先生に、「何の曲なのでしょうか?」と質問すると、「パーリ語の三帰依文だ」と教えてくださった。

 Buddham Saranam Gacchami (ブッダン・サラナン・ガチャーミー) 南無帰依佛
 Dhammam Saranam Gacchami (ダンマン・サラナン・ガチャーミー) 南無帰依法
 Sangham Saranam Gacchami (サンガン・サラナン・ガチャーミー) 南無帰依僧

「メロディーは日本のものとは違うけど、歌詞は同じだ」とS先生は説明してくださった。
そのメロディーが耳の奥でRefrainされたまま、バスは次の目的地へと走り出した。
今日も長距離Driveになるとのことだが、夕方には国境を越えてネパール入りするので、今日はとうとうインド最終日となってしまった。

バスが走り出して10分もしない内に、一気に体力の限界がきた。
体の外側だけがポワ~と春みたいに暖かくって柔らかな感じがするのに、体の内側はウィルスに侵食されてボロボロのドロドロって感じで、座席に腰掛けているのがやっとの状態だった。
幸い今日は隣りの座席に誰も座っていなかったので、自分のカバンを枕に横になった。

気がつくと、いつの間にか熟睡していて、みんながバスから降りてゆく気配で意識が戻った。
誰かが、「青空トイレだよ」と声をかけてくれたけど、まったく起き上がる気力が無かったので、そのまま車内で横になっていると、また誰かが(S先生かな~?)「鶴だよ! インドの鶴がいるよ!」と声をかけてくれた。
「あぁ、写真を撮りに行きた~い!」って思ったけど、まったく体が動かない (-_-)zzz
「起きなきゃ~… 起き上がらなきゃ~…」と頑張って、ようやく体を立て直して座席に座れた時には、もうバスは動き出していて、鶴の姿も見ることができなかった[もうやだ~(悲しい顔)]

「ならば、もうチョット寝よう…」と思ったところに、MRちゃんが私の隣りの座席へ移動してきたので横になることは出来ず、私は窓にもたれかかって眠ることにした。
しかし・・・・・、 後方座席のS先生と会話を始めたMRちゃんの声が、私の左耳元に直撃するので、それが私の頭痛headに祇園精舎の鐘の音のようにゴ~~~(~_~;)と響いて、とても眠れる状態ではなくなってしまった…(/_;)
座席を変わろうかな~とも思ったけど、変に誤解されてMRちゃんを傷つけちゃってもいけないし…、と思ったのでしばらく我慢していたら、今度はMRちゃん、わたしの左肩を枕にお昼寝Timeに入ってしまった ..(・・$)..
これで完全に身動きが取れなくなってしまった私… (^_^;)  
しかし、おかげですっかり目が覚めた (^^ゞ  ある意味、復活[exclamation]

2590786午後1:40 昼食は後回しにして、先にカピラ城跡の見学となった。

カピラ城は、お釈迦様のご実家とも言うべき、釈迦族の居城であった。
サンスクリット語では、「カピラヴァストゥ」と言い、「カピラ」というのは仙人の名で、「ヴァストゥ」とは城のことである。
仏教遺跡が次々と発掘される中、釈迦族(シャーキャ・サキヤ)のカピラヴァストゥの所在については、いまだに正確な位置が特定されていない。

現在、ネパールのタライ地方にあったとして、ネパール領タウリハワー郊外のティラウラ・コット説があり、インドとネパールの国境から北へ約5km、お釈迦様の誕生地ルンビニーからは、西北西に23kmの地点にある。
ヒマーラヤ・ダウラギリ南峰の麓で、バーナ・ガンガーの河畔に、南北に450m・東西に500mほどの長方形のレンガで構築された城壁が発見されており、外側には溝やタンクなど、城としての要素を備えた建造物の遺構がいくつも発掘されている。
また、紀元前600~200年頃(マウリヤ期)の土器や硬貨や装飾品なども出土しているが、カピラヴァストゥであることを裏付けるものは何も発見されていない。

もう一つは、ティラウラコットの南東25kmの距離にある、インド領のピプラーワー説で、ルンビニの南西15kmに位置し、ヒマーラヤの雪解け水が注ぎ込む勇壮な穀倉地帯である。
ピプラーワーからは、直径23mのストゥーパと僧院跡が発見されているが、城としての遺構はない。
ただ、このストゥーパから水晶製の舎利容器と、僧院跡からは ‘カピラヴァストゥ’と記されたシーリング(印)が発見(ニューデリー博物館に展示)されているが、しかし他所から持ち込まれた可能性もあるので決定的な証拠とは認められていない。

また、ピプラーワー・ストゥーパから南へ1kmの所に、ガンワリヤ遺跡が発見され、こちらは城ではないがレンガ積みの宮殿らしき建造物の遺構が発掘されている。

2590787今回私たちが訪れたのは、ピプラーワー遺跡の方だが、こんな平地に城を造るかな~?というほど視界は広かったが、ヒマーラヤを望むことは出来なかった。
そして、少々見飽きてきたレンガ造りのストゥーパや僧院跡の見学よりも、遺跡公園としての美しさに目を奪われた私とMRさんが睡蓮池の方へ向かうと、Memberも続々ついて来て、池の周りを10分ほど散策した後、みな早々にバスへと戻った。

2009年2月7日(土) シュラーヴァスティ ( マヘート (舎衛城) ) [アジア]

サヘート(祇園精舎)の北隣りに、古代インドの大国・コーサラ国の首都・シュラーヴァスティの舎衛城跡(マヘート遺跡)がある。
南の伝道拠点が王舎城(ラージャグリハ)なら、舎衛城(シュラーヴァスティ)は北の伝道拠点といわれた場所である。

「舎衛城」は、お釈迦様の時代(紀元前5世紀頃)、十六大国の中でもマガダ国と並ぶ二大強国のひとつ、コーサラ国のプラセーナジット王の居城であった。
現在、シュラーヴァスティの「舎衛城」は「マヘート」と呼ばれており、ここラプティ河付近にて、「カッチ・クティ」と「パッキ・クティ」と呼ばれるレンガを積み上げた二つのストゥーパが発掘された。
「カッチ・クティ」は、先ほど見学した祇園精舎をお釈迦様に寄進した人物・スダッタ(須達多)の屋敷跡に建てられたストゥーパであるといわれ、また、「パッキ・クティ」は、凶賊・アングリマーラがお釈迦様に諭されて改悛した場所に建てられたストゥーパであるといわれている。

2588914「カッチ・クティ(スダッタのストゥーパ)」
スダッタ(須達多)は、慈悲の心があつく、自身の財産を寄るべくなき人々に惜しげもなく投じ食などを給していたことで、人々より、「孤独な人(アナータ)に、食物(ピンダ)を支給する、人(ダ)」という意味の、「アナータピンダダ(アナータピンディカ)」という名で呼称されていた。
この「アナータピンディカ」を漢訳にしたものが、「給孤独(きっこどく)」である。
スダッタ(給孤独)長者は、商用で出向いたマガダ国のラージャグリハ(王舎城)にてお釈迦様の教えに触れて以来、仏教に帰依し、自身の居があるコーサラ国・シュラーヴァスティ(舎衛城)に、お釈迦様を迎えるための精舎を建てようと、自身の財産を投じてコーサラ国王の太子・ジェータ(祇陀)の園林に建てた精舎が、「給孤独者と祇陀太子の園林(祇園)」という意味の、「祇園精舎」である。
そのスダッタ(給孤独)長者の屋敷跡に建てられたのが、「カッチ・クティ」であるといわれている。

2588915「パッキ・クティ(アングリマーラのストゥーパ)」
当時、コーサラ国のシュラーヴァスティ(舎衛城)一帯は、バラモン教をはじめ外道の勢力が強く、お釈迦様に反感をもつ人も多かったようである。
そのシュラーヴァスティに、アヒンサというバラモン(司祭階級ブラーフマナ)の青年がいた。
後に、アングリマーラ(指の首飾りをかける者)と呼ばれるようになるその人である。
体力・智慧ともに優れ、容姿も端麗であったというアヒンサ(アングリマーラ)は、パーラカシー村のマニー・ヴァードラというバラモンに師事し、聖典ヴェーダを学んでいた。
そんなアヒンサに恋心を抱いた師の妻がアヒンサを誘惑したのだが、アヒンサはこれを強く拒絶した為、師の妻はアヒンサに拒否されたその腹いせに、自らの衣を破り裂いて悲相を装い、夫(師)に、「弟子のアヒンサに乱暴され辱めを受けた」と偽りを訴えた。
これを聞いた師は激怒し、アヒンサに、「100人の人間を殺して、その指を切り取り鬘(首飾り)にすれば、お前の解脱(修行)は完成する」と教唆した。
誤解を受けたアヒンサだが、師に忠実な彼は師の命令どおりに人々を殺してその指を切り取っていった。
この時よりアヒンサは、アングリマーラ(「アングリ」とは「指」、マーラは「花冠」の意)と呼ばれ、人々から恐れられるようになった。
そして彼はとうとう99人を殺してしまい、あと一人を殺そうと近づいたその老婆は、彼の母親であった。
アヒンサが母親を殺すことをためらったその時、そこへお釈迦様が通りかかられた。

以下は、『鴦崛摩(アングリマーラ)経』に説かれている。

アングリマーラのことを耳にされたお釈迦様は、ある日の午後、周囲の人々が止める中、アングリマーラの住む林へと、一人で入って行かれた。
お釈迦様の姿を目にしたアングリマーラは、その命を狙おうと背後から追いかけたのだが、ところがアングリマーラがどんなに走っても、前を歩くお釈迦様に一向に近づくことが出来なかった。
アングリマーラがお釈迦様に、「沙門よ、立ち止まれ!」と言うと、お釈迦様は、「私は立ち止まっている。 アングリマーラよ、あなたの方が立ち止まりなさい」と言った。
アングリマーラは、お釈迦様から言われたことの意味がわからずに、その理由を尋ねた。
お釈迦様は、「アングリマーラよ、私は全ての生き物に対する害心を捨て、常に立ち止まっているが、そなたは生き物に対する自制の心無く、常に止まることを知らない。 それ故に私は止まり、そなたは止まっていないと言ったのだ」と説いた。
お釈迦様の教えに自らの非を認めたアングリマーラは、即座に武器を捨てて、お釈迦様の足元に敬礼し、出家することを願い出た。
お釈迦様に、比丘になる事を許されたアングリマーラは、その後仏法に帰依した。

そしてお釈迦様のもとで修行に励み、尊敬に値する阿羅漢の一人となったアングリマーラであるが、彼は、過去に犯した罪を償い続けなければならなかったと経には説かれている。
ある日、托鉢に出掛けた尊者アングリマーラに、方々から棒切れ・石などが投げつけられ、尊者アングリマーラは頭から血を流し、鉢は割られ、大衣を引き裂かれて、精舎に戻ってきた。
その姿を見られたお釈迦様は、アングリマーラに、「バラモンよ、あなたは耐えねばならない。 あなたは、自身が造った過去の業の報いを、幾百年も幾千年も地獄で受けねばならない。その報いを、今ここで受けているのだ」と仰った。

「パッキ・クティ」は、このアングリマーラが改悛した場所に建てられたストゥーパであるといわれている。
またアングリマーラのこのお話しは、仏教の廃ったここインドでも、道徳の授業として学校で教えるため、大半のインド人は知っているそうだ。

2009年2月7日(土) シュラーヴァスティ ( サヘート (祇園精舎)) [アジア]

A.M.5:30  目覚めると・・・・・    
「 ダメだ~~ぁ  結構~辛い・・・・・ 」  風邪の症状がひどくなっている・・・・・[もうやだ~(悲しい顔)] 
でも頑張らねば…と、身支度を整えた後、食事というより栄養補給の行(?)をする。
自分では、いつもと変わらない行動をとっているつもりだが、やはり同室のMRさんにはバレテいて、
「なっちゃん、今日、ヘン!」と言われた。(^_^;)
でも、MRさんは日増しに元気になってきたので、よかった!よかった!(#^.^#)

A.M.8:00 Hotelを出発して、10分ほどで サヘート(祇園精舎)に到着。

「シュラーヴァスティ」という地名は、お釈迦様の時代(紀元前5世紀頃)のコーサラ国の首都名である。
コーサラ国は十六大国の中でも最も有力な国のひとつで、シャーキヤ族(お釈迦様の故郷)もコーサラ国の勢力下にあった。
コーサラ国の首都・シュラーヴァスティ(現在のバルランプール)の郊外に、19世紀後半、イギリス人考古学者のカニンガムによって、「サヘート遺跡」と「マヘート遺跡」という二つの遺跡が発掘された。
その「サヘート遺跡」が、漢訳仏典で言うところの「祇園精舎」に当たるとされている。
お釈迦様が説法をされた場所として経典の中に、「祇樹給孤独園精舎(ぎじゅぎっこどくおんしょうじゃ)」と記されているものが多いが、この「祇樹給孤独園」の略称が「祇園」であり、つまり、ここ「祇園精舎(サヘート遺跡)」なのである。
この祇園精舎では、お釈迦様の伝道生活45年の内、24回もの雨安居を過ごされたと伝えられる。

祇園精舎(ジェータヴァナ・ヴィハーラ)は、『仏説阿弥陀経』が説かれた場所で、王舎城(ラージャグリハ)の竹林精舎(ヴェヌヴァナ・ヴィハーラー)と並んで二大精舎といわれ、舎衛城(シュラーヴァスティ)の南西方向の郊外に、南北350m・東西250mの大規模な精舎であったと伝えられる。

2586270「祇園精舎」となったこの土地は、もともとコーサラ国の国王プラセーナジット(パセーナディ・波斯匿王)の太子、ジェータ(祇陀)が所有する園林であった。
そして、ここシュラーヴァスティの町に、スダッタ(須達多)という、身寄りのない孤独な人を憐れんで、自らの財産を恵まれない人々に惜しげもなく投じていたことで、人々から「給孤独(アナータピンディカ)長者」と呼ばれていた富豪が住んでいた。

ある時、スダッタ長者は商用で訪れた王舎城(ラージャグリハ)でお釈迦様の教えに触れて感動し、以来仏教に帰依し、是非ともシュラーヴァスティにお迎えしたいと願った。
そこでスダッタ長者は、シュラーヴァスティに、お釈迦様とお弟子方が居住する場所を探しはじめて、ジェータ(祇陀)太子が所有するこの土地を購入しようとした。
しかしジェータ太子は、スダッタ長者の依頼に対して、「必要な土地の表面を金貨で敷き詰めたら譲ってやろう」と戯れを返してあしらった。
しかしスダッタ長者が本当に金貨を敷き詰めた為、ジェータ太子は驚いてそのまま土地を譲渡し、更に自らも樹木を寄付して寺院建設を援助したという。

『平家物語』の冒頭句、 「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり」 は、ここのことであるが、近年の発掘調査でも祇園精舎から大きな鐘は見つかっていない。

『阿弥陀経』の冒頭には、 「 如是我聞 一時佛在 舎衛国 祇樹給孤独園 與大比丘衆 千二百五十人倶 」 (「かくの如く我聞きたてまつりき。 一時、仏、舎衛国祇樹の給孤独園にましまして、大比丘の衆 千二百五十人とともなりき。」 とある。
この、「祇樹給孤独園」が、ジェータ(祇陀)太子とアナータピンディカ(給孤独)長者の寄進によってできた精舎であるということで、「ジェータの樹園(祇樹)」とア「ナータピンディカの園(給孤独園)」の、2人の名を冠して「祇樹給孤独園」と呼び、これを略して「祇園」というのだそうだ。

サヘート遺跡(祇園精舎)は、比較的早く見つかった遺跡、つまり発掘されてから年数がたっているので、きれいに整備された遺跡公園だがイヤミのない落ち着きがあった。
南門から入場してすぐの左手には大きな菩提樹があり、その後ろには僧院跡の遺跡がある。
そして右手前方には、周囲をフェンスで覆われた大きな菩提樹があり、それは‘アーナンダの菩提樹’と称され、チベット仏教徒らが参拝をしていた。

2586271祇園精舎(サヘート)のほぼ中央には他より一段高くなった遺跡があり、これがお釈迦様のガンダ・クティ(香室)跡なのだそうだ。
私たちより先に、その香堂跡で『阿弥陀経』のお勤めをしていた日本人Groupは、関空から同じ日に渡印したGroupで、Routeこそ違うがチョクチョクお見掛けする方々だった。
そのGroupの後ろでお勤めの順番待ちをしながら、私はその方々のお説法を聞かせてもらっていたのだが、ある女性が、「これからも、自分の信心を大切にしていきたいと思います」と発言された。
「自分の信心ね~ぇ ・・・・・  
いつ崩れちゃうかわからないし、後生までは持っていけない信心を、真実信心だと思っているなんて、あわれだな~」  なんて思いながら聞かせてもらった。

このGroupの後、私たちも『阿弥陀経』のお勤めをさせていただき、S先生のお言葉をいただいた。
ここでも涙を流されている方がおられたが、私の心は、自分の体調の心配ばかりで、それ以外に味わうことなどできなかった。
ただ、日本では見ることの出来ない色鮮やかな野鳥を見ながら、「あぁ、お釈迦様はこの風景の中で御浄土の世界を言葉にされたんだな~」と思いながら、青い空を見上げた。

その香室跡の隣り(北側)には、『阿弥陀経』の御法を説かれた法堂跡があり、その東には講堂跡が遺っていた。
その他にも、十大弟子のサーリプッタ(舎利弗)、マハーモッガラーナ(摩訶目犍連)、マハーカッサパ(摩訶迦葉)、そして子息のラーフラ(羅睺羅)の庵跡なども遺っているようだ。
写真を撮りに行きたいと思ったが、熱を帯びた体が動くことを拒否した・・・・・

2009年2月6日(金) クシナガラ → シュラーヴァスティー / 六日目の総括 [アジア]

2583274午後1時少し前にはクシナガラのHotelを出て、28号線を西に向かってシュラーヴァスティへと走り出した。
午後からのscheduleは移動のみであるが、地図上の直線距離でも220kmを越える。 
日本の高速道路で考えたら大した距離にはないが、何せここはインドの山奥(?)なら未開の地であって、森あり、町あり、大河ありの凸凹道を進まねばならない。
一昨日のブッダガヤ→ヴァーラーナスィが250kmの移動、昨日のヴァーラーナスィ→クシナガラが270kmの移動、そして今日はそれをはるかに上回る移動になるとのことで、TourConductorの拓郎さんやS先生からも覚悟が必要と言われ、出発前からチョット緊張~!
それに、喉の痛みと頭痛の症状も出てきた・・・、 日本からDoctor Stopがかかるほどの風邪と一緒に渡印したIEさんと、ず~っと一緒にしゃべっていたから移っちゃったかな?と、そんな心配もあった。

2583273車窓から見る町の風景は毎日変わる。
Memberの中には、「同じような田園地帯に、同じような町や村ね」という人もあるが、私には毎日全然違って見える。
例えば同じように見える田園地帯も、田畑の区画のFormが違うし、土の色も、藁の組み方も違うのだ。
それに家畜の体格からも、その村々の貧富がうかがえるし、燃料となる牛糞の乾し方や積み方にも地方によってその特色が見られる。
家の造りも違えば、人々の服装も違うし、川の水、林の木々、空気の色だって全部違う。
それらを見て、感じるのがとても楽しいから、バスで移動だけのscheduleだって全然退屈しないし、寝ちゃうなんてもったいないって思う[exclamation]

2583272そ~ぉ、そ~ぉ♪ クシナガラの郊外では、インドに来て初めて目にした墓地を発見。
四角いブロックを積み重ねて小さなストゥーパのようなそのお墓は、ヒンドゥー教徒のものだそうで、火葬と川流しが基本のヒンドゥー教でも一部の部族ではお墓を立てるのだそうだ。
それからバザールで見かけるニワトリ屋さん、
私はてっきり鶏卵(家畜)用のニワトリを売っているのかと思っていたら・・・・・  
車窓から見たその光景は、鳥かごの横にセッティングされた調理台の上に、首を切られたニワトリが…、
そしてその調理台の下には滴り落ちた赤い血がバケツいっぱいに溜まっていた…。
自分が食べている時には、美味しいだの、不味いだのと言っているけど、私のお皿に盛られる前には、こ~ゆ~段階がふまれてるんだよね~ と、不意に見せつけられて気落ちしたりもする・・・・・

クシナガラのHotelを出発して2時間、バスはサーラ(沙羅の樹)の森の路肩に停まった。
何だろう?と思ったら、拓郎さんが、「[わーい(嬉しい顔)]さ~、お待ちかねの青空トイレで~す! Let’t Try!」と、とっても楽しそうに案内した。
男性陣は続々サーラの森に入って行ったが、 でも、女性陣なかなか・・・・・ ね~ぇ[たらーっ(汗)]

線路を越え、川を渡り、町をぬけて、バスはひたすら走り続けて2時間後、ガソリンスタンドで再び停車。
ここでは何とか女性陣だけは仕切りのある場所で用を足すことができた。
そしてスッキリした人から道向のチャイのお店でTea Time。 何だかとってもホッとした。

ちなみにこのチャイ、一杯2~3Rsだそうだ。 現在1Rs=2円なので、10円もしないということ…。
畏天さん情報によるその他の主だったものの値段は、ミカンは10個で20Rs(40円)、バナナは一房(8本位)で10Rs(20円)、ミネラルウォーター1Lで12Rs(30円)、この他に、寺院に入場する際の靴の預かりは1Rs(2円)、サイクルリクシャーは二人乗りで一回10Rs(20円)だということだ。
桁違いなその値段に驚いてしまうが、州や階級によっても金額はこの限りではないとのことだ。
チャイをいただきながら隣りのShopでSKさんがビスケットを購入された。
一個8枚入りの小さな物だが、10個で20Rsという値段につられて私も購入した。

30分ほど休憩した後、再びバスは走り出す。
しばらくして、なんか太陽の向きが違うな~と思ったら、TourConductorの拓郎さんから、「‘予定のRouteにかかる橋が壊れていて通行止めになっているらしい’という情報を対向車のバスDriverさんから聞いたので、予定のRouteを変更しました。
したがって・・・・・、 Hotelへの到着がプラス2時間遅れます。 ・・・・・ あしからず~[あせあせ(飛び散る汗)]
という説明を受けて、[がく~(落胆した顔)]Memberの疲れがドド~っと倍増した。
おまけに隣に座ったIEさんが、ず~っと私の肩を枕に眠ってらっしゃるので(^^ゞ、身動きが取れずに腰痛まで出てきて、さすがの私もチョットしんどいドライブとなった。(^_^;)

結局、シュラーヴァスティーのHotel・パワン・パレスに着いたのは、夜の9時を回っていた。
Memberもかなり疲れた様子で会話の少ない静かなDinnerとなった。

そして私は・・・、 この時完全なる風邪の自覚症状があり、おまけに疲れてくると熱が出る上に体温調節まで出来なくなる体質なので、この日は熱による熱さと寒気と喉痛と頭痛で食欲まで失せてしまい、明日からの先行きをかなり不安したが、Memberにはさとられないよう、拓郎さんからもらった薬をしっかりと飲んで、とっとと就寝した。

2009年2月6日(金) クシナガラ ( チュンダ村 ) [アジア]

2582807お釈迦様最後の説法地から18km、バスで30分ほど走った所に通称チュンダ村はある。
お釈迦様の時代のマッラ国パーヴァー村(現在のファジルナガル村)である。
バスを降りてから細い路地を抜けて、村のMainRoadを進み、再び細い路地に入って歩くこと10分、村の中央部に赤土がこんもりと盛られた小高い丘のたもとに出た。

2582806ここがチュンダ(純陀)のストゥーパである。
最近、発掘がされたばかりなので、高さ15m・直径40mほどの小山に、レンガの残骸が散らばっているだけのストゥーパであるが、だからこそ風情があっていい。
今はまだ観光地化されていないので、村の一部として子供たちの遊び場にもなっているそのストゥーパの頂上に上ると、チュンダ村が一望できる。

『大般涅槃経』によると、お釈迦様が自分の所有する果樹園で休まれていることを知った鍛治屋・工巧師の子・チュンダ(純陀)は、さっそくお釈迦様を家に招いて手厚くもてなした。
そこでお釈迦様はチュンダに法を説き、チュンダはそのお礼にと一行を翌日の食事に招待し、お釈迦様は快くその供養にあずかる。
チュンダは種々の料理を供養したが、お釈迦様は、「スーカラ・マッダヴァ」という料理だけを食して、他のご馳走は弟子たちに振舞うように指示されたという。
(「スーカラ・マッダヴァ」の「スーカラ」とは「野豚」・「マッダヴァ」とは「柔らかい」という意味で、豚肉料理か、あるいは豚が探しだすトリュフのようなキノコ料理とも言われているが諸説あって定かではない。)
しかし、チュンダの料理を食べたお釈迦様はその直後に、血が迸り出て死に至らんとするほどの激しい苦痛を訴えるが、その場では平静を装っていたという。
これを知ったチュンダはお釈迦様の身を案じて一行の旅に同行する。
しかしお釈迦様は、80歳という高齢に激しい食中毒の様の症状を現し、遂にパーヴァー村から7kmほど歩いた先のカクッター河の畔で倒れ伏してしまい、そこに一時的な床を作らせた。
この時アーナンダらに、「きっと誰かが、‘チュンダの毒料理のせいで釈迦は倒れた’と言い出すだろう。 
しかしそれは間違いで、私はチュンダの料理を最後の供養に選んで逝くのである。
この供養は、私が受けた供養の中でもスジャータのものと並んで、私の人生の中で最も重要な供養である。
そしてチュンダは大いなる威徳を積み、偉大な尊者となるべき偉業を成し遂げたのだから、もしチュンダを恨む者が現れチュンダを恨む者が現れたなら、よく諭すのだよ。」と、指示されたと伝えられる。

お釈迦様って、いったいどこまで広いのだろう~
仏様と言うのは、いったいどこまで見えているのだろ~
そんなことを考えながらこの丘・チュンダのストゥーパーに立っていると、自分がいかにチッポケな貪欲にガンジカラメに囚われているかということが見えてくるような気がした。

な~んか、ここで瞑想したら気持ちいいかも[るんるん]って場所だった。

2582808私たちは再び路地へと入り、バスへと戻るRouteを歩き出したが、Guideのジャマールさんの計らいで、ファジルナガル村(チュンダ村)のMainRoadを通り、バザールを見学しながらバスまで遠回りをして戻ることになった。
バスの車窓からではない、インドの村を、人の視線の高さで見られることがすごく嬉しかった。[かわいい]
村の人たちはとても不思議そうに私たちのことを見物しているけど、私はそれ以上に興味津々の視線でバザールの風景や、ファジルナガル村の人々を見返す。
サリーのお店や葉タバコのお店、ランプ屋さんに菜種油屋さん、ミシン職人に古紙回収業者。
2582809並べだしたら切がないほど、見るものすべてが新鮮でとっっっても楽しい!
変り種は、いかがわしい診療所や、結婚式道具屋さん、それからチェンダにちなんで鍛治屋さんや金物屋さんもたくさん軒を連ねていた。
バスまでの徒歩20分間は、アッという間に過ぎてしまった。
出来ることならShoppingもしたかったな~ぁ

再びバスに戻った私たちは、前日泊まったHotelに戻ってLaunch Time!
この日のLaunchはTourConductorの拓郎さんの計らいで、インディカ米じゃないお米で(日本米でもないと思うけど…)おにぎりを用意してくれた。[手(チョキ)]
私たちは美味しいおにぎりとカレーのBuffetで大満足&お腹いっぱいになって、午後からの出陣に備えた♪

2009年2月6日(金) クシナガラ ( ラーマバール・ストゥーパ ・ マータ・クンアル寺院 ) [アジア]

2581454ニルヴァーナ寺院(涅槃堂)から東に1.5km程のところに、お釈迦様の御遺体を荼毘にふした(火葬した)とされる跡地に建てられた、ラーマバール・ストゥーパ(荼毘塚)がある。
涅槃堂と同様政府によって整備された遺跡公園になっており、そのクリメイション(荼毘塚)・ストゥーパは、高さ15m・直径34mのレンガ造りである。
Gateから入ってレンガ敷きの歩道を、やはり時計回りに歩いてゆくと、「こっち、こっち」と、現地のおじさんに手招きをされ、思わずついていくと、そのストゥーパの東(後ろ)側に金箔をペタペタと貼ってある場所へと案内された。
その時、後方からGuideのジャマールさんが、「(そのおじさんに)ついて行っちゃ~ダメだよ~、戻っておいで~」と声がかかったので引き返すと、どうやらあのおじさん、参拝詐欺師(?)だったようで、この遺跡に巡礼に来た人たちに、「ここでお参りして、ここにお賽銭を置くの!」と声をかけてはストゥーパのたもとへと誘い、そこで回収したお賽銭で生計を立てている人だということだった。
ど~りて! ど~見たってあそこは祠堂には見えないもんね~![モバQ]
でも、私たちの後からやってきた別のGroupは、あのおじさんから言われるままに、そこで参拝していた・・・

ラーマバール・ストゥーパの北東横には、お釈迦様が最後の沐浴をしたといわれるヒラニヤヴァティー河が流れていた。

『大般涅槃経(マハーパーリニッバーナ経)』には以下のように説かれている。
お釈迦様が涅槃に入られたという知らせは、アーナンダによってマッラ(末羅)族へと伝えられた。
マッラ族の人々は五百組の布で天幕と囲いを作り、クシナガラ中の香と花と楽器を集めて、香料や花輪、歌舞音曲でもってお釈迦様を尊び、供養して6日間を過ごした。
そして7日目にマッラ族の8人の首長は、身を清めて新しい衣装を身に付けた後、お釈迦様の御遺体を慣習通りに南へ運ぼうとしたのだが、どうしたことかどうにも持ち上がらない。
アヌルッダ(目の潰れた釈尊のお弟子)からこれを聞いたアーナンダは、以前お釈迦様から、「転輪聖王(世界を支配する帝王)の葬法にならって扱うがよい」と言われていた通りに、習俗・慣習に流されない葬儀を指示し、お釈迦様のご遺体は東の郊外にあるマクダバンダナ(天冠寺)へと運ばれた。

その頃、尊者ウルヴェーラ・カッサパ(大迦葉)は、道すがらお釈迦様の涅槃を耳にして、500人の僧とともにパーヴァーより急ぎクシナガラへと向かっていた。
お釈迦様の入滅を聞いて嘆き悲しむ弟子等にマハー・カッサパは、「釈尊は常に諸行無常と教えられた。生じ存在しうるものが破壊しないという道理はない。」と説き聞かせ、悲しみに耐えていたという。

一方、マクダバンダナ(現ラーマバール・ストゥーパ)では、お釈迦様の火葬の準備も整って薪に火を点けようとしたが一向に火が点かず、アヌルッダに相談した結果、マハー・カッサパの到着を待つことになった。
そしてマクダバンダナに着いたマハー・カッサパと500人の僧がお釈迦様に礼拝した後マハー・カッサパより点火され火で、お釈迦様は火葬された。

その後、お釈迦様の遺骨をめぐってマッラ族と各国の争いが起きたが、バラモン僧のドーナ(香姓)の提案を受けて、お釈迦様の舎利(シャリーラ・遺骨)は八つに分配された。
 ・ クシナナガラのマッラ族
 ・ マガダ国のアジャタシャトゥル王
 ・ ヴァイシャーリーのリッチャヴィ族
2581457 ・ カピラヴァストゥの釈迦族
 ・ アッラカッパのプリ族
 ・ ラーマガーマのコーリャ族
 ・ ヴェータデーバのバラモン
 ・ パーヴァーのマルラ族
それから遅れて来たマウリヤ族は灰を得て灰塔を建てた。

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お釈迦様が荼毘にふされたラーマバール・ストゥーパを見学後、順序が逆な気もするが・・・ ニルヴァーナ寺院のすぐ南にある、お釈迦様の最後の説法地跡に到着した。
涅槃堂や荼毘塚があった公園に比べると手をかけていないなという感じもするが、レンガの土台が遺った小さな遺跡公園になってる。
その遺跡と向かい合うようにしてマータ・クンアル寺院という小さな祠堂があり、堂の中には入れないが、10世紀頃に作られたというお釈迦様の成道の像が安置されて、フェンス越しに見られるようになっている。
ただ残念なことに、ここには沙羅双樹がない。
私は、この地こそ守られるべき聖地であると思うのだが・・・・・・   残念である。

2009年2月6日(金) クシナガラ ( ニルヴァーナ寺院(涅槃堂) ) [アジア]

2580836ニルヴァーナ寺院(涅槃堂)の周囲では、2,3世紀~7世紀頃に建てられた寺院跡が発掘され、イスラム教徒に侵略される12世紀頃までの僧院跡や祠堂跡が遺されており、また園内にはサーラ(沙羅)双樹やアショーカ(無憂)樹、ジャンプー(閻浮)樹などが植えられている。
公園中央の円筒形の白い建物が涅槃堂で、1876年に再建され、仏滅2,500年大祭を記念して1956年にインド政府によって改修・整備された。
その後ろには、パリニルブァーナ・チャイティヤ(涅槃祠堂)と記された印などが発見されたという場所にニルヴァーナ・ストゥーパ(高さ23m)が建てられている。

階段を上がって涅槃堂の中に入ると、室内いっぱいの大きさで、身の丈6.1mのお釈迦様の涅槃像があった。
この涅槃像は5世紀の初めクマラグプタ朝時代に、ハリバラという僧が寄進したもので、1876年にマトゥラーの川畔の砂の中から発見され、それがここクシナガラに運ばれて、1927年にビルマ(ミャンマー)の仏教徒によって涅槃堂が造営されたのだそうだ。

『大般涅槃経(マハーパーリニッバーナ経)』によると、ヒランニャバッティ河畔にあるクシナガラのマッラ(末羅)族の園林ウパヴァッタナに赴かれたお釈迦様はアーナンダに、「私は疲れた、横になりたい。 二本並んだサーラ(沙羅)双樹の間に、北枕に床を用意してくれ」と言われ、アーナンダが整えたその床に、右脇を下につけ、足の上に足を重ねて横臥されたという。
この時、沙羅双樹は時ならぬ花を満開に咲かせてお釈迦様に降り注ぎ、また天からマンダーラヴァ(曼荼羅)華が降り注ぎ、栴檀(白檀)の粉が虚空から降り注ぎ、お釈迦様を供養する為に天から音色や合唱が奏でられたと経は伝える。
横たわられたままの姿勢で最後の説法をされたお釈迦様は、悲しむ弟子たちを前に、
「諸々の現象は移りゆくものである。 怠ることなく精進して完成させよ」
と、最後の言葉をかけられ、禅定に入りながら涅槃に入られたと伝えられる。

ブッダガヤの菩提樹の下で成道されてから、45年間の伝道の旅を終えられたそのお姿が、今、私が目の前にしているお釈迦様なのだ。
涅槃堂の出入り口正面には、既に別のGroupがお勤めをしていたので、私たちはお釈迦様の頭部の前にてお勤めをすることになった。

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お勤め(読経)が始まりしばらくして、予期していなかったことが起きた。
人事のようだが・・・、  言い知れない悲しみが湧いてきて涙が溢れ出したのだ。
心で考えるよりも先に、無意識の内に込み上げてくる気持ちに戸惑いながらも読経を続けようとするが、声を出せばしゃくり上げて言葉にならないほどの想いに心は占領され、私はMemberの読経の声の中に隠れるようにして泣いた・・・・・
母が逝ったあの時・・・  あの時の気持ちと重なるような思い・・・? 
いや・・・・・  それ以上だったかもしれない・・・・・
なぜ私はこんなにも泣いているのかと、自分でも訳がわからないままに、ただ息を殺しながら涙でかすむ経典の文字を目で追った。
お勤めが終わり、S先生のお説教が始まった頃には、随分気持ちも落ち着いてきたが、涙はまだ止まらなかった。
お釈迦様が涅槃に入られたからといって、それを悲しむ心など、私にあるのだろうか・・・・・
逆な気がした・・・・・  
お釈迦様が逝ってしまわれたことを悲しむ心が半分、
だけど、やっとお釈迦様とめぐり会えたという思いが心があったような気がする。
自分の事ながらよくわからないというのはまったく情けないが…
でも、できることならもう少しここにいて、自分自身と向き合っていたかった。

お勤めが終わった私たちの為に、お釈迦様にかけられていた金色の布を外して下さると言うので、私はMemberに促されるまま座を立って涅槃像にカメラを向けた。
入場した時と何もかわっていない、ただのTravelerの私が、もうそこにあった。

御参りを終えた私たちは涅槃堂の外へ出て、時計回りに僧院跡の遺跡の方へと向かい、Guideのジャマールさんから説明を受けるが、私にはこの時の記憶もメモもない・・・
私はいったい何をして、何を考えていたのだろ~~~[ふらふら]   さ~ぁ・・・・・ [わーい(嬉しい顔)]

お釈迦様がマガダ国の王舎城(ラージャグリハ)を旅立たれた時、やはり故郷のカピラ城を目指された最後の旅だったのだろうか。
ここクシナガラからカピラ城(正確な場所は不明)までは、あと200kmほどの所だという。

何にせよ、仏になってもその肉体というものは無常なんだということを、お釈迦様は身をもってお示し下さったと同時に、お釈迦様が得られた“仏覚”というのは、肉体とは別のものであるというその存在を明らかにして下さったのだと私は思った。
私が私と思っているこの肉体も、所詮一時的な借り物でしかなく、この肉体がある故に煩悩に囚われるのだ。
しかし、だからこそ“我”というもの存在を知ることが出来、それがどんなものであるのか、その値打ちをお聞かせ頂く法と出会えるのだということを教えられたような気がする。
そこでこそ、『人身受け難し今已に受く、仏法聞き難し今已に聞く。この身今上に向かって度せずんば、更に何れの生に向かってこの身を度せん』の御文が生きてくるのだと思う。

2009年2月6日(金) クシナガラ ( お釈迦様 最後の旅路 ) [アジア]

A.M.6:00起床  旅行6日目、いよいよ後半戦突入だ!
「もう、半分が終わっちゃったの?」と言うくらいに、前半戦はかなり充実していた。

昨夜は真っ暗で何もわからなかったが、部屋の窓を開けると朝靄に包まれた草原がとても幻想的だった。
一昨日は砂埃で視界が悪く(~_~;)…、昨日は排気ガスで視界が悪く(>_<)…、
でも今日は…、深呼吸の出来る視界の悪さだ!(#^o^#)

朝食はとても質素だったが、お粥が出たので塩昆布を分けてもらって美味しく頂戴した。
その朝食中にTourConductorの卓郎さんより、「日本から持ってきた非常食で、もし余剰品があったら、ここクシナガラで活動しているNPO法人インドマイトリの会へ寄付して欲しい」との依頼があったが、私は何も非常食を持ってこなかったので寄付することができなかった。
でも、Memberから集った寄付(食料品)は山のようにあり、チョットだ~いぶ驚いた\(◎o◎)/!
みんな~・・・ インドまで日本食を食べに来たのかい?^_^; ってくらいに!!
でも、たくさん持っていてよかったね! おかげでこんなに寄付が出来たよ~!! (私とMRさんを除いて…(^^ゞ)

A.M.8:30 Hotelを出発。 今日はIEさんのリクエストでお隣り同士の並び席。 
まぶしい太陽と朝霧であまり景色が見えないので、IEさんとおしゃべりをしながら移動を楽しむ。
今日のSchedule Checkをすっかり忘れていて、「次はどこへ連れてってくれるの~?」と、すっかり聞法の吹っ飛んだ頭で、ただのTravelerになりきっていた私。
バスが到着したのは、四大聖地のひとつ、ニルヴァーナ寺院(涅槃堂)であった。
「ニルヴァーナ」とはサンスクリット語の音訳で「涅槃」のことをいい、「煩悩の炎を吹き消した」という意味なのだそうだ。
お釈迦様が、最後の旅を終わられた場所・・・ つまり、ご入滅なされた場所である。

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お釈迦様の最後の旅は、『大般涅槃経(マハーパーリニッバーナ経)』・『長阿含経』などに説かれている。
80歳という年齢で、ラージギルの王舎城を旅立たれ北へと向かわれたお釈迦様は、ナーランダ村、パトナー村、チェチェル村、ナーディカ村と説法をしながら旅を続けられ、ヴァイシャーリーの町で雨季を過ごされていた。
この時、大病に倒れられたお釈迦様を前にしたアーナンダは、お釈迦様亡き後の教団の行く末を心配し、回復なされたお釈迦様にご教示を願ったという。
そこでお釈迦様は、アーナンダに、「自帰依自灯明 法帰依法灯明」 と説かれた。

  「アーナンダよ、比丘僧伽は私に何を待望するのか。 
  私は既に内外の区別もなく、ことごとく法を説いた。
  アーナンダよ、如来の教法には、あるものを弟子に隠すということはない。
  教師の握りしめた秘密の奥義(師拳)はない。
  もしそのように思うならば、私亡き後の比丘僧伽について何事か語らねばならない。
  しかし、私は比丘僧伽の指導者とも思っていない。 比丘僧伽が私を頼っているとも思っていない。 
  私が比丘僧伽に何事か語ることなどあろうか。
  私は既に八十歳となり肉体は衰え、あたかも古い車に草紐を縛りやっと保たれているようなもので、
  思い通りに動くこともかなわない。
  アーナンダよ、私の歳は熟し余命いくばくも無い。 私は汝らを捨てて逝くであろう。
  アーナンダよ、汝らはただ自らを灯明とし、自らを依処として、他の者を依処とせず、
  法を灯明とし、法を依処として、他を依処とすることなく、修行せんとする者こそ、
  わが比丘僧伽の中において最高の境地に到達するのである。」

体力を回復された頃には雨期も終わり、お釈迦様は再び旅立たれ、西北へ進まれた。
最後の旅のRouteについては諸説あるが、パンダ村、ハッティ村、アンバ村、ジャンプ村、ボーガ市、そしてヴリジ国の町や村を立ち寄りながら説法をし、国境の町ケッサリヤを通って、マッラー国のパーヴァ村(ファジルナガル村)に入ったといわれている。
お釈迦様はここで鍛冶工の子チュンダのために法を説き、その供養に受けた食事で激しい腹痛を訴えるようになったといわれている。
お釈迦様は死に至るほどの激しい苦痛をこらえながらも更に歩みを進めクシナガラを目指し、その途中のカクッター川で身を清められた。
この時お釈迦様はアーナンダに、「私の腹痛は、鍛冶屋のチュンダの食事が原因ではなく、自らの生活の中から生じた病であるとチュンダに言い聞かせよ」と指示されたのだと伝えられる。

そして最後の歩みをクシナガラに向けて進まれ、その近くのヒランニャバッティ河の畔に辿り着いたお釈迦様は、マッラ(末羅)族の園林ウパヴァッタナにて一対のサーラ双樹(沙羅双樹)を見つけると、アーナンダに、「疲れた、横になりたい」と告げ、その樹の間に北枕に用意された床へ、右脇を下に横向きになり、足の上に足を重ねられて横臥された。
嘆き悲しむアーナンダや弟子たちに向かって、お釈迦様は、
「もろもろの現象は移りゆくものである。 怠ることなく精進して完成させよ」
と、最後の言葉を残し、禅定に入りながら涅槃に入られたという。

そのような地に赴きながら、私はまったくの旅行者気分のまま、ニルヴァーナ寺院(涅槃堂)のGateをくぐって朝靄の木立の中をすがすがしい気持ちで進んでいった。
まだ人もまばらな園内を、左回りに僧院跡の遺跡を見ながら涅槃寺へと向かう。
「どこの遺跡も似通っていて頭ゴチャゴチャになりそうだね~」なんておしゃべりしながら・・・・・
(つづく)

2009年2月5日(木) 五日目の総括 [アジア]

バスは途中二度ほどトイレ休憩の為に政府が管轄しているという宿舎で停まった。
まったく別の場所にある別の宿舎であるはずが、まったく同じで造りの上に、香辛料とお香の香りと匂いまで同じなので、思わず「エッ」と錯覚してしまった(^.^)。

灯りの無い夜のDriveは少し退屈・・・
でも、夜闇の農村地帯を[やや欠け月]満月間近の月明かりが照らし、それもまた幻想的な風景だった。
小さな村の路肩に並ぶ屋台は、夜遅くまで店を開けている。
売れもしないだろうに、何故こんなに遅くまでOPENしているのかな?と思ったら、その屋台自体が仕事場であり寝室になっているのだと気付いた。
そうやって、流れの変わらぬ時間の中で生きているのだと知った。

夜の8時頃、Guideのジャマールさんが途中の町で買ったオレンジとバナナを差し入れてくれたが、バナナはチョット苦手なのでオレンジだけをいただいた。
そしてクシナガラの宿、ロイヤル・レジデンシー・Hotelに到着した時には、夜の10時を少し回っていた。
Drive疲れのせいか空腹感はなかったが、バスから降りて、休む間もなく食堂へ直行。
そしてパーティーが始まった![手(チョキ)]

2577550なんと、今回の “仏跡巡拝・11日間” の旅の間に、25名のMember中、4名が[バースデー]誕生日を迎えるという偶然! 
そこでMain Guestには内緒にしたまま、KY夫妻幹事のもと、[プレゼント]Birthday Partyが企画されていた。
食事の挨拶の前のSurpriseに、4名のGuestも笑顔で[バー]Champagneにて乾杯
S先生、アメリカのKTさん、広島の二人のおかあさんHMさんとYSさん、お誕生日おめでとうございま~す[黒ハート]
Dinnerは、インドの鍋料理をMainにBuffetでカレー、そして食後には取り分けたBirthday Cakeをいただいた。
同室のMRさんも少しずつ食べられるようになってきたのでホッとした。

食後、部屋に入ると私のスーツケースが行方不明になっていたので心配したが、クシナガラには届いていたので一安心!
MRさんは、「バスの中でズ~っと寝てきたから眠れるかな~?」と言っていたが、私がシャワーを浴び終わる頃には、既に夢の中にいた。 スゴイ…!(#^.^#)
私はまた一人静かに翌日の準備をしてからベッドに入った。

2577549今朝、ガンガー河から見た朝日が瞼によみがえる。
そして、クシナガラへの道中に見たあの夕日も・・・・・
太陽を神と崇める地球の人々の気持ちがよくわかる。
私はそれに依存こそしないけど、やっぱり感じることはたくさんある。
どんなにすがり付いても時は過ぎてゆく・・・・・  それが無常・・・・・
それに、太陽だけは変わらないんだよね~、
2,500年も前にお釈迦様が目にされた光景と・・・・・
仏跡地ではあわただしくって何も感じられない私だったけど、
太陽を見ていたら、お釈迦様をすごく身近に感じることができた。
自分勝手な思い込みだけど・・・・・、 わかっているけど・・・・・。

それから、S先生の言葉が途切れたあの瞬間…。

アニャータ・コンダンニャ(阿若・憍陳如)、アッサジ(阿説示)、マハーナーマ(摩訶摩男)、バッディヤ(婆提梨迦)、ヴァッパ(婆敷) の 五人の比丘らはどんな心持でお釈迦様の言葉を聞き、どんな気持ちでそれを受け止め、どんな世界に入っていったのだろうかと、S先生の姿を見てフッと思った。
“初転法輪”とは、仏の悟った法(真理)を初めて輪の如く転ず、これが、仏・法・僧の誕生であり、ここから道は開かれたのだ。
お釈迦様が五比丘に説法したことで、法(真理)は初めて人の言葉となった。
それが、国を超えて、時を越えて、私をこの地へと導いた。
この奇跡を、私は表面上、当たり前の如くに受け止めているが、その実、この余りにも強大な力の存在を肌で感じ、そのプレッシャーに慄いている私もいる。
認めたくないのだ・・・・・
それが怖いのだ・・・・・

お釈迦様が始めて言葉になされた法は、中道とその実践法たる八正道、苦集滅道の四諦、四諦の完成にいたる “三転十二行相” であったと資料にはある。
でも、私には難しいことは何もわからない。
ただ、私にもわかるように、「この道を行けよ」と示してくださったお釈迦様と、「早く来いよ」と呼んで下さっている阿弥陀様がいるのだという真実は、有り難くも聞かせて頂く身になったのだと教えていただいた。
そして、これを有り難いとも思っていない“私”というヤツの本性も見させていただき、そこから逃げることに必死になっている“私”というヤツにも気付かせていただいた。
「これ以上 何が欲しいの?」 と、毎度の如くご同行に問いかけられる。
その答えこそ、喉の奥につまった異物のように、私を不安にさせ、イライラさせているものの正体なのだ。

疲れた・・・・・   
明日のために…、 必ず来ると自負する明日のために、今日はもう寝よう・・・・・

2009年2月5日(木) サールナート → クシナガラ [アジア]

時刻は正午を30分ほど回っていた。
鹿野苑を後に、昼食場所へ向かうと思いきや・・・ また旅行社お勧めの土産物店、それも日本人が経営するShopへと連れて行かれた。
一般参加のTourだったなら、「私は外の露店で買い物してきま~す[るんるん]」と言って出かけてしまうところだが、なにせ今回は団体旅行(^_^;)  
そう易々と個人行動をするわけにもいかず、店内でおとなしく待機することにした。
それに旅行社が案内するインドのShopでは、客が店内に入ると、防犯上の理由からか、出入り口に鍵をかけてしまうので、内緒で外に出ることも出来なかった。
20分ほどのshoppingで、8万円もする御念誦を購入したMemberもいたが、皆それぞれに楽しんだようだ。
そして私のお楽しみ…、やっとLaunch timeである。
昼食は昨夜泊まったHotelのRestaurantでいただいた。
私はけっこう美味しくいただいたが、Memberの多くが、「カレーはもう飽きた」などとぬかしておった。
[パンチ]けしからん! !!![わーい(嬉しい顔)] ここはインドじゃ[exclamation]

2577049P.M.2:10 Launchを終えてHotelを出発した私たちのこれからのScheduleは、クシナガラまでのLong Drive。 [バス]
今日は後方に座ろうとバスの後部座席に座ったのだが、S先生の計らいで、IKさんの隣りに空いていた特別席(最前列の通路側)に座らせてもらうことになった。

今回の旅で初めてお会いしたIKさんとの会話に花を咲かせながら、車窓から見る風景を楽しんだ。
IKさん(Man)はとっても真面目な人だけど、真面目過ぎる故にそこがメチャメチャ笑える。
たとえば、物売りや物もらいがたかりに来ても、その一人ひとりにちゃんと挨拶をして返事をしているところなんか、律儀すぎて頭が下がるほどだ。
そのIKさんと、家族の話や、仕事の話、昔の思い出話や、求道の話など、尽きることなくおしゃべりをした。

2577050しかし、インドの街というのは、“おエライさん”と呼ばれる人が移動をする度に、道路や施設などがそのおエライさんの為に貸し切り状態になってしまうので、こちらのScheduleが狂わされるものだと知った。
今朝見学した博物館も、“おエライさん”が来ているからと入場禁止になっていたので、見学順序を変更した。
そして今も、“おエライさん”が来ていて周辺の道が通行止めになっているとのことで、ただでさえ慢性渋滞のヴァーラーナスィの道路には、車や二輪車に人や牛がごった返していた。
どこの国も、生い立ち・家柄・社会的地位・財産などで人間をランキングしているが、ここインドでは未だ根深く残るカースト制度の影響で、他国以上に人間をランク付けしているのだな~と、ヴァーラーナスィの街を見ていて改めて感じた。

ヴァーラーナスィの街をやっとのことで脱出して、小さな町をいくつか通り過ぎ、夕闇迫るP.M.5:30、バスはなんにも無い農村地帯の道路わきに停車した。
そこで、「夕焼けタ~イム[晴れ]」 とTourConductorの拓郎さんに案内され、カメラを手にバスを降りると、西の空には大きな夕日が n(^0^)n
白い花咲く畑の奥の草原には、インド孔雀の群れが遊び、その奥に広がるカラシ菜畑に咲く黄色の花を照らすように、太陽は徐々にその大きさを増しながら西の空へと傾いていった。
これがインドの風景なんだ・・・・・ お釈迦様も目にされた風景なんだ・・・・・  そう思うと嬉しかった。
太陽を背に写真を撮るMemberの横で、私は一人、浸ってしまった~[ぴかぴか(新しい)]

2577051

出発の号令がかかって振り返ると、バスの前後には何故か人だかりが出来ている。 何故???
どこから沸いてきたのか現地の人々がバスの周囲に整列し、物珍しそ~ぅに私たちのことを眺めている。
「何見てんのよ~!?」と言うのはこちらの台詞で、「あんたらこそ何見てんのさ!?」と、いつの間にか私たちの方が見物対称になっていた。
確かに…、この太陽を毎日見慣れている現地の人にとっては、この太陽を物珍しそうにカメラに収めている私たちの姿こそ、不思議以外の何ものでもないよね。
でも、そうやって当たり前のことを当たり前だと思うこと事態、とても贅沢なことなんだって思い知らされた。
傲慢さ故の無いものネダリだよね・・・・・ そんな私って ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・

2009年2月5日(木) サールナート(鹿野苑)の遺跡群 [アジア]

考古博物館から移動し、いよいよお釈迦様が最初に御説法をされたという初転法輪跡地・鹿野苑へと向かった。
鹿野苑は、別名・ムリガダーヴァ(鹿の森林)とも呼ばれ、またお釈迦様在世の頃にはリシパタナ(仙人の集まる所)とも呼ばれ、紀元前3世紀のマウリヤ王朝から、シェンガ朝、クシャーナ朝、グプタ朝、パーラー朝を経て12世紀に至るまでの1,500年間、インドの宗教的拠点として数多くの求道者たちが集い栄えた場所であるといわれている。
ここも要入場料の為、疎ましい物売りはついて来ないのでゆっくりと見学することが出来る。

2576265周囲を鉄のフェンスで囲まれた鹿野苑(ろくやおん)のGateをくぐり、整備された通路を進んで行くと、右手遠くにダーメーク・ストゥーパが徐々にその姿をあらわしてゆく。
その歩道を30mほど行った右手にダルマラージカ・ストゥーパがあり、ここがお釈迦様が五比丘に対して始めて法(真理)を説かれた場所(初転法輪跡)だとされている。

マウリア朝時代(紀元前3世紀)に、アショーカ王によって建てられたと伝えられるダルマラージカ・ストゥーパ(法王塔)は、直径14m・高さ30mを超える巨大な塔であったと伝えられるが、残念ながら1794年にヴァーラーナスィのディワーン藩王によって破壊され、現在はそのストゥーパの基壇を残すのみになっている。
7世紀頃この地を訪れた玄奘三蔵(唐の僧・三蔵法師)は、「基壇は傾いているものの、今なお30mを越える高さで、その手前には21mほどの石柱が立っている」と記している。
その21mほどの石柱というのが、ダルマラージカ・ストゥーパの北東横にあるアショーカ王柱である。

マウリヤ王朝第三代のアショーカ王(紀元前268~前232頃)は、暴君として名の知れた王で、強大な勢力をもって他国を征服していったが、即位9年目のカリンガ王国征服では、あまりの無残さに武力による征服を深く後悔し、この時より政策転換をして、以後は自らが仏法に帰依し、法(仏教)の精神に基づいて国家を統治しようとした。
アショーカ王は、お釈迦様の仏舎利を8本の塔のうち7本から取り出して新たに建てた84,000の塔に分納したと伝えられ、また全国各地の磨崖や大小の石柱に仏法を彫って国内各所に立てたとされる。(現在確認されているアショーカ王石柱は十本ほどである。)

2576264鹿野苑内に、かつて15mほどの石柱の上部に四頭の獅子(ライオン)の柱頭がのっていたというアショーカ王柱も、現在は基部約2m(直径70cm)だけが残され、それは鉄格子とフェンスで二重に囲われていた。
これもイスラム教徒による破壊の爪跡で、この石柱の上部が先ほど見学した サールナート州立考古博物館に展示されてあった 法輪と四頭の獅子柱頭であり、インド共和国の国章となったモデル彫像である。
この石柱にはブラーフミー文字が刻まれているが、これは僧伽(仏教に帰依する集団)の分裂を戒める法勅が書かれているのだそうだ。

アショーカ王柱を背にして残るレンガの積まれた遺跡が、ムーラガンダ・クティー(初転法輪寺)と呼ばれる巨大な精舎跡である。
現在は建物の礎石部分と、左右一対の石柱が残る祠堂跡と階段が遺るのみである。
玄奘三蔵によると、精舎はレンガで造られ、一辺が19m・高さは61mもあり、四方には黄金の仏像が彫ってある、祠堂には等身大のお釈迦様の石像があったなどと記している。

2576266奉献塔と呼ばれる小さなストゥーパたちの間を通って向かった先は、鹿野苑でひと際目を惹く、東に大きく聳え建ったダーメーク・ストゥーパである。
ここは、お釈迦様が五比丘に説法(初転法輪)をした後、二度目の説法をされた跡を記念として建てられたと伝えられている。

ダーメークという名は、ダルメークシャー(法を観ずる所)という言葉に由来し、ダーメーク・ストゥーパは法眼塔とも称されるそうだ。
アショーカ王の時代(紀元前3世紀)に創建され、グプタ朝末期(6世紀)に現在の形に造営されたというこの塔は、二つの円筒を積み重ねた形状で、基壇は直径約28m、全高43.6mのインド最大のストゥーパである。
ストゥーパの基部(12m辺り)には蓮の花などのレリーフが刻まれ、石で覆われた仏像を祀る厨子が八方向に造られている(仏像は残存せず)。
またS先生の本によると、ストゥーパ頂上部には、「諸法は因より生ず」と書かれた石盤があるのだそうだ。

私たちはその巨大なダーメーク・ストゥーパの下で円陣を組み、「釈尊の一代記」を輪読した。
お釈迦様が説法をなされたこの場所で、S先生が言葉を詰まらせた…。
湧き上がる思いをこらえきれないS先生の姿を見て、S先生と五比丘の心が重なったように見えた。
そして、何も湧き上がる心の無い自分の醜さを必死で打ち消そうとする私がそこにいた。

2576267お勤めならぬ輪読を終えた私たちは再び歩き出し出口へと向かった。
途中右手に、分厚いコンクリートの屋根で覆われ有刺鉄線の張り巡らされた パンチャタン寺院(五塔寺)跡(一辺5m・高さ1mほどしか残っていない)を横目で見ながら、私は一人、Memberとは少し離れて歩いた。
なんだかチョット落ち込んだ自分を、誰にも気付かれたくなかったから・・・・・

2009年2月5日(木) サールナート ( ムルガンダ・クーティ・ビハーラ ・ 州立博物館 ) [アジア]

2574077ムルガンダ・クーティ寺院(初転法輪寺・根本香積寺)は、スリランカ系の仏教寺院で、1931年にマハーボディ協会が建立したものだという。
門前でバスを降りてGateをくぐると、整備されたApproachの奥にその寺院はあった。
建物自体、それほど大きなものではないが、ブッダガヤの大塔を模した重厚な石造りの寺院で、しかし一見すると仏教寺院というよりもChurchといった趣である。

入り口で靴を脱いで中へと入ると、床が大理石張りの長方形の部屋になっており、正面の祭壇には座禅を組む金ピカのお釈迦様像が祀られていた。
そして何よりも素晴しいのは、祭壇のある前方の壁を除く3壁面いっぱいに描かれたフレスコ画である。
これは日本人の 野生司 香雪(のうす こうせつ)画伯が描かれた、お釈迦様の一代記である。

ムルガンダ・クーティ寺院が完成した後、寺院内壁にお釈迦様の一生涯をテーマとした壁画を揮毫する画家の選出を話し合う席で、アナガーリカ・ダルマパーラ尊者が、周囲の反対を押し切って、日本人画家の招聘に頑として固執し、翌年(昭和7年3月)日本人画家の桐谷洗麟氏が選定されたものの、しかし渡印直前に急死したことで、野生司香雪氏が派遣されることになった。
(アナガーリカ・ダルマパーラ(1864~1933・スリランカ)は、イギリスの植民地支配に喘ぐ祖国で、仏教復興運動を展開した建国の父と呼ばれている人物である。)
壁画の制作は、壁面の条件や材質の悪さ、熱波と雨期の湿気などの気候的悪条件等の理由により困難を極めたが、野生司が研究に研究を重ねた結果、七十数年が経った現在でも、鮮やかな色彩を見ることができた。
また、制作費用に関しても寄付やアルバイトなどでまかなったと、寺院の一角に掲げられた掲示板に書かれてあった。
制作には実に4年の歳月を要したそうだ。

2574084壁画は、お釈迦様のお誕生、降魔成道 (ごうまじょうどう)、乳粥供養、そして涅槃に至るまでの26場面から成り、Guideのジャマールさんが丁寧に解説してくれた。
20分ほど見学した後バスに戻る途中、南側の公園との境にとてもきれいなピンクの花をつけた大きな樹をみつけた。 ニッキの樹なのだそうだ。

2574364その後、サールナート州立考古博物館へと向かった。
サールナート博物館では私物のSecurity Checkが厳しいとのことで、手荷物をバスに残したまま手ぶらでの入場となった。
しかし、館内に入場する際通ったsecurity Gateでは、ピーピー鳴っても、「OK~♪」と笑顔で通してくれるし、他の外国観光客が大きなカバンを持って入っても、「写真はダメよ~♪」と一言声をかけるだけで、思っていたよりルーズなものだった。
ちなみに入場料は、インド人5Rs(¥10)、外国人US$2(¥200) だそうだ[猫]

館内には、付近一帯の遺跡から発掘された(3世紀~12世紀)「サールナート仏」と呼称されている仏像やヒンドゥー教の神像などの所蔵品が展示されている。
正面Security Gateのすぐ奥に、インドの国章にもなっている、紀元前3世紀にアショカ王が作られた、砂岩を彫刻した獅子王柱(高さ213cm)があった。
アショカ王石柱の上部にあったものだが、イスラム勢力の破壊によって柱頭2mの所で折られた部分で、アバクス(円柱の頭部を囲む板)の上に4頭の獅子(ライオン)が背中合わせに座っている。
わずかな破損は見られるものの、滑らかな曲線で彫り込まれ、美しく磨き上げられたその四頭の獅子は、雄々しくも穏やかに四方を見つめているように見えた。
この獅子は、力と勇気と自信を表し、蓮華の上のアバクスに彫られた4頭の動物は方角の守護神で、ライオンは北、象は東、馬は南、雄牛は西を表わしているとのこと。
また、アバクスの下には、サッティヤメヴァ・ジャヤテ(真実のみが勝つ)という言葉が記されているらしい。(気づかなかった…(^^ゞ)

このCentral Hallより北(左)のExhibitionが仏教美術、南(右)のExhibitionにはヒンドゥー教系美術の出土品が展示されていて、私たちは左手の方へと案内された。
その一番奥の部屋の正面に、ここサールナート考古博物館のMAINとなる、グプタ朝時代(5世紀頃)に作られたという「転法輪印坐像」があった。
サールナ-ト遺跡から出土したこの石仏は、お釈迦様の初転法輪を描写したもので、インドで最も美しいと称えられる傑作品なのだそうだ。
Memberは食い入るように見ながら、そのふくよかな体つきと堀の深い顔立ちのお釈迦様には「違和感があるわね~」、「見慣れないから…」、などと口にしていた。
私は、穏やかで柔和なお顔立ちに、静寂と強硬をにじませた外柔内剛のこのお釈迦様像の方のが、日本でよく目にする細身で無表情の仏像よりも、人間的でより、より身近な存在だと感じた。
このお釈迦様、鼻や指先が少し欠けているが、これもイスラム教徒の横暴によるものだという。(「罰当たりな!」[ちっ(怒った顔)]と思った。)
また、足元の台座には中央の法輪を挟んで、右に三人、左に二人の五比丘と、(説明を聞き逃した[ふらふら])母子、それに鹿野苑を表現した2頭の鹿が彫刻がされていた。

時間が許すなら、もっとず~っと見ていたかったが、残念ながら主要な展示品のみの見学でTime OUT![もうやだ~(悲しい顔)]
(内緒話[耳] … 館内は写真撮影禁止だが、噂では、賄賂を渡せばOKなのだとか・・・)

[メモ]追記 : 原始仏教においては宗教的側面よりも哲学的側面の方が強かった為、尊像を造って祀るという習慣はなく、また初期仏教においても仏像は存在しなかった。
仏像の出現はお釈迦様入滅後500年以上経ってから(1世紀頃)、西北インド(現パキスタン)のガンダーラと、中インドのマトゥラーの2つの地域で発祥されたと言われている。
ここサールナート博物館に展示されているものは、いずれもガンダーラ様式ではなくマトゥラー様式なのだそうだ。
グプタ朝以前はギリシア文化の影響が強くガンダーラ美術が主流だったが、グプタ朝時代(5世紀頃)以降、純インド的な仏教美術としてマトゥラー様式に代わり、「グプタ仏」、「グプタ様式」と呼ばれる仏像が作られた。
グプタ様式(仏)の特徴は、薄い衣に肉体の曲線を露わにした表現を好み、サールナート派の仏像にはそれが顕著にみられる。

2009年2月5日(木) サールナート ( チャウカンディ・ストゥーパ(迎仏塔) ) [アジア]

2572213ヴァーラーナスィから北へ10kmのところにサールナートはある。

最初に訪れたのは、初転法輪をする為にブッダガヤから来られたお釈迦様を、五人の比丘らが出迎たといわれる場所に建てられた、チャウカンディ・ストゥーパ(迎仏の塔)である。
手入れの行き届いた敷地内に、高さ28mほどのレンガを積み上げて作られたストゥーパは、4~5世紀・グプタ朝時代に作られたものといわれている。
(頂上に立つ八角形の建造物は16世紀・ムガール王朝のフマーユーンが勝手に建てたものなので、仏教とはまったく関係がない。)

ゴータマ・シッダルタ太子(お釈迦様)が、城を捨て、地位を捨て、家族を捨てて出家の道に入られた時、父であるスッドダーナ(浄飯)王はこれを止めようと手を尽くしたが、シッダルタ太子(お釈迦様)の意志はとても固く、スッドダーナ(浄飯)王は諦めざるをえなかった。
しかし出家されたシッダルタ太子(お釈迦様)の身を心配されたスッドダーナ(浄飯)王は、ちょうどその頃シッダルタ太子(お釈迦様)と共にウッダカ・ラーマ・プッタ仙人の元で修行をされていた五人のバラモン修行者に、シッダルタ太子(お釈迦様)の身辺警護を命じられたと言われている。
その五人の修行者は、短期間で修行を会得しながらも満足せずになおも高きものを目指して修行を続けるシッダルタ太子(お釈迦様)を見て同行することを決め、ウッダカ・ラーマ・プッタ仙人のもとを去ってガヤー・シーサ山に向かわれたお釈迦様の後を追ったとされている。
幾人かの師の教えを修するも、いずれもお釈迦様が求めるものとはほど遠く、こうなれば自分の力で解決しようと決意されたお釈迦様は、五人の比丘らとともにウルヴェーラーの苦行林に入られたのである。
お釈迦様はここで6年にも及ぶ難行・苦行を積まれるが、極端な苦行は正常な精神をも削ぎ落としてしまい、このまま苦行を続けたところで得られるものは何も無い、これは真実を追究する道ではないと知って難行・苦行に終止符をうたれた。
そして、ナイランジャナー(尼連禅河)河で沐浴をし、村娘スジャータより捧げられた乳粥の食べて体力を回復され、断食をやめ托鉢を再開されたのである。
しかし、共に連れ添い修行に励んでいた五人の比丘らは、お釈迦様のその行為をみて、「シッダルタ太子(お釈迦様)は堕落してしまった」、「期待を裏切られた」といって、お釈迦様を捨ててここサールナート(仙人の集う所)へとやってきたのである。

その後、ブッダガヤの菩提樹の下で無上覚を得られたお釈迦様は、かつて共に修行をした五比丘にこの法(真理)を説こうと、たったお一人でブッダガヤから五比丘のいるサールナートへと最初の旅をされたのであった。

ある日、その五人のもとへと歩いて来るお釈迦様の姿を認めた五比丘は、苦行を放棄して世俗の生活に戻ったお釈迦様を軽蔑して、「堕落したシッダルタ太子(お釈迦様)が近づいてきても無視をしよう」と示し合わせていたが、しかし、お釈迦様が近くに来れば来るほど、その神々しいお姿に畏敬の念を抱き、知らぬ間に立ち上がってお釈迦様を迎え従ったのだといわれている。

お釈迦様は五比丘らに、自らが阿羅漢であり正等覚者(仏陀)であることを宣言し、その教えを説くために五比丘を従えサールナート(鹿野苑)へとおもむかれ、そこで最初の説法(初転法輪)を為したのである。

私たちがチャウカンディ・ストゥーパ(迎仏塔)に訪れた時、その塚の袂では、白い衣装を身にまとったスリランカの尼僧らが読経をするでもなく、各々にただボ~っとチャウカンディ・ストゥーパを見上げていた。
[眼鏡] いったい何をしていたのだろ~か・・・・・  なぞである。

2009年2月5日(木) サールナート ( 初転法輪に至るまで ) [アジア]

そういえば、前日のDinnerの間に紛失したMK先生の荷物だが、Memberの一人が誤って部屋に持ち帰っていたことが判明した。
まったく似ても似つかない他人の荷物を、持ち帰ってもなお気が付かないとは、やはり旅の折り返し地点まで来て、みんな相当に疲れていることがうかがわれた。
しかし、一件落着。 何よりであった。

A.M.9:00 Hotel クラーク・ベナレスを後にまず向かった先は、旅行社直営の土産物店だった。
露天で売っている物品の数十倍の値段が付けられた店内で、再び退屈な時間を過ごす。
買い物は嫌いじゃないし、欲しい物もたっくさんある。
でも、インドで買うからには、もう一つ “0” を減らした額で買いたいと思ってしまう。
然るに、旅行社直営のShopでは何も買えんという結果に終わってしまうのだ・・・・・
257170015分間と時間指定をされて入ったShopであったが、既に30分以上経過し、それでもshopping timeは続いて、やっと出発するかと思ったら、今度は店前で猿回しのPerformanceが始まって、それを見ることになった。
初めPerformerが籠よりコブラを取り出したが、特に芸を見せるわけでもなく、ホレホレと観客にコブラを見せただけに終わった。
次に二匹の猿による芸と寸劇のPerformanceが始まり、初めの内は楽しく見させてもらったが、三歳の子猿のひどく怯えた態度や、よく見ると手や顔のいたる所に生々しい傷跡を見て、とても楽しんで見ることなど出来なくなってしまった。
Performanceの最後に大きい方の猿がチップの回収に観客の元を回って和ませてくれたのが唯一の救いだった。
結局このShopで要した1時間が、今日の終盤に差し障ることになろうとは、この時は誰も知る由もなかった・・・

バスはヴァーラーナスィの街を抜けて20分ほど走り、初転法輪の地・サールナートへと入った。

ブッダガヤの菩提樹のもとで成道をされたお釈迦様の心は大きく揺れていたという。
サンユッタ・ニカーヤ(雑阿含経)によると、お釈迦様には、ご自身が悟られた深遠で、見難く、難解な真理は、煩悩に支配された凡夫に理解させるなど不可能であると解され伝道を躊躇する心と、一方で、憂い苦しむ人々を救う為にこの法を届けたいとする心と、相対する二つの心に迷われたのだとある。
そんなお釈迦様の前にブラフマー(梵天)が現れて、合掌・敬礼した後に、「願わくはこの甘露の門を開け。無垢なる者の覚った法を聞け。(世尊よ、法輪をお説きください。聞けば真理を悟る者もおりましょう)」と、三度繰り返されたのだと言う。
ブラフマー(梵天)の懸命な勧請によって真理を説くことを決意したお釈迦様は、
「甘露(不死)の門は開かれたり。 耳ある者どもはこれを聞け。 己が過去の信は捨てよ。」 と詩節をもって呼びかけられた。
そして、「梵天よ、わたしは人々を害すであろうかと思って、いみじくもこの微妙で巧みな真理を人々には説かなかったのだ」と言われたのだと。
この、悟りを開かれたお釈迦様が、その法を広めることをためらうも、梵天の勧めによって説法を決意されたこのことを、梵天勧請(ぼんてんかんじょう)と称される。

伝道を決意されたお釈迦様は、まず、出家直後のかつての師・アーラーダー・カーラーマとウッダカ・ラーマ・プッタの両仙人にこの真理を伝えようとしたが、その直前(初転法輪の前夜とも7日前とも伝えられる)に二人とも亡くなられたことを知る。
そこで、ウルヴェーラーの苦行林で共に苦行に励んだ五人の比丘らにこの法を説こうと、彼らが滞在しているヴァーラーナスィの郊外、サールナート(鹿野苑・ろくやおん)へと向かわれたのである。
それが昨日私たちがブッダガヤからバスで移動した、あの250kmの道のりである。
この時代、サールナートは、リシ・パタナと呼ばれており、これは仙人の集るところという意味なのだそうだ。
そのリシ・パタナ(サールナート)にむけてブッダガヤを旅立たれたお釈迦様は、その日の夕刻、アージーヴィカ教徒の修行者ウパカと出会い、ウパカは ただならぬ雰囲気のお釈迦様を呼び止めて、
「御身は誰によりて出家せるや、誰をか師となせるや、誰の法を信ずるや」
と尋ねると、お釈迦様は、
「我は一切勝者にして、一切智者なり。 一切を捨て離るるが故に、渇愛すでに尽きて、心解脱せり。 自ら独り悟りたれば、誰をか師と称すべき、我には師もなく、等しき者もなし」
と答えられたのだと伝えられる。
無師独覚(師は無く、自身独りで悟った)と聞いたウパカは、「尊者よ、あり得ることかもしれない」と頭を振りつつも、この時はお釈迦様と別れるが、後に仏教に帰依して出家をされたそうである。

お釈迦様が、「凡夫には到底理解不可能な法」と解され、説法・伝道をためらわれたその御法を、「知った・わかった・解明できた」と自負する学士や、「わからん、わからん、何度聞いてもわからん」と言いつつ、聞けばいつかはわかる教えだと自惚れている私自身を恥ずかしく思う一方で、「ど~せわからん教えだもの」と、投げやりに聴聞している私自身が、おぞましくも見えてきた。

しかし、ブッダガヤからサールナートへと一人で向かう長い道中には、ウパカさん以外にもたくさんの人々と出会われたであろうに、お釈迦様は決してそれらの人々には法(真理)をお説きにならなった。
それすらも凡夫の私には計り知れんことだが、この私に仏法が届くまでの長い長~い道のりには、たくさんの人の様々なご苦労があったのだろうな~と、その一端に触れることができたような気がした。

2009年2月5日(木) ヴァーラーナスィ ( ガンジス河 ② ) [アジア]

25710383,000年以上の歴史をもつヒンドゥー教の聖地であるヴァーラーナスィのガンガー河に船を出してから40分、東の空が朝焼け色に染まり始め、辺りの闇が徐々に力を失い、ガンガー河の西岸より輝き始めた朝日は、ヴァーラーナスィの街に光と力をゆっくりと注ぎ込む。

インドの宗教的精神の象徴であるガンガー河より見るご来光は、想像以上のインパクトで私の心を捉えた。

ここガンガー河で沐浴をする人々は、いったいどのような罪に怯えて、何を清めようとしているのか・・・・・・
私は聴聞で、「なすことすべてが地獄行きのタネ(因)」と聞かせてもらっていても、これに怯える心も無いし、何を清めたらよいのかもわからない。
ただ漠然と、「いつか罰は下るだろう」と一時的に不安になるのみである。
この末法の時代に、自力の苦行によって解脱を望み修行をする人もすごいと思うけれど、わが身の罪を罪として認め、輪廻転生からの解脱を心の底より求める人も、ある意味すごいことだよな~と思った。

2571039ガンガー河のガートは、北のラージ・ガートから南のアシ・ガートまで、4kmにわたって連なっており、その84あるガートの中でも最も神聖とされるマニカルニカー・ガートでは、ヒンドゥー教徒の火葬が執り行われている。
ヒンドゥー教徒にとって、ガンガー河畔で荼毘に付され、その遺灰を河に流してもらうというのが最大の喜びなのだそうだ。
また、ヴァーラーナスィのガンガー河近くで死んだ者は、輪廻から解脱できると考えられているため、この地での火葬を願いながら、カーシーラーブ・ムクティ・ババン(死を待つ館)で、ひたすら死を待つ人々もいる。

火葬場のあるガート、マニカルニカーとは、「宝石の耳飾り」という意味だそうで、その名はインドの神話に由来するらしい。
さて、死体を燃やすには薪代が必要となるが、富者は質も香りもよい薪で燃すことが出来るが、貧者や、赤ん坊、妊婦、蛇に噛まれて死んだ人はそのまま川に流されるのだそうだ。
マニカルニカー・ガートの南にあるハリシュチャンドラ・ガートでも火葬が行われているが、火葬場と言っても日本のような建物があるわけでも、囲いがあるわけでもなく、河畔のガート(石段)に積み上げられた薪に遺体を乗せてそのまま焼く、野ざらしの火葬場である。
マニカルニカー・ガートを見下ろすように建っている黒くすす汚れた寺院の中には、絶えることのない聖火が守り受け継がれており、すべての死体はこの一つの炎によって焼かれる。
そして人の形を失い灰と化した死体は、そのままガンガーへと流されるのだ。
マニカルニカー・ガートにはおびただしい数の薪の山が置かれ、その脇には年中絶えることのない煙が立ち上り、その光景を見ていると無意識の内に鼻を覆い言葉を失ってしまう。
ヴァーラーナスィは別名、「マハーシュマシャーナ」とも呼ばれており、これは「大いなる火葬場」という意味なのだそうだ。
私たちは暫し無言のままガートの火を見つめた。
この火葬場は間近での写真撮影こそ禁止されているものの、誰でも近に行って死体の焼かれ行く様を見ることができるそうだ。
もし、その光景を目にしたら、私はいったい何を思うのであろうか・・・・・ そんなことを考えていた。

2571040

すっかり顔を出した朝日が水面を照らすガンガー河は、たくさんの観光客を乗せたBoatでごった返していた。
それに混じって土産物売りたちのBoatもワンサカと出没して、美しいガンガーの景色の視界を遮る。
船上からのガンガーを1時間ほど楽しんだ後、私たちは再び元のガートから船を下りて街の中へと歩き出した。
街の中は夜明け前とは比べ物にならないほどの多くの人々で溢れかえり、物乞いや物売りを蹴散らしながら進んでいくと、朝をむかえた牛や猿たちも今日の生活をスタートさせていた。

途中、バスが停車している大通りまで、人力リキシャーに乗って向かうことになった。
初体験に I’m HAPPY ~ [るんるん]
風をきり、ちょっと上目線から眺める街の風景はとっても気持ちよく、朝食をこしらえる店々から香る美味しそうな匂いにお腹の虫がク~~~と鳴いた。

Hotelに戻って8時近くに朝食を済ませる。
今朝の朝食はMENUも豊富で、いつも以上に美味しくたくさんいただいた。
さっき見た火葬場の風景など、チットも思い出すこともなく・・・・・

2009年2月5日(木) ヴァーラーナスィ ( ガンジス河 ① ) [アジア]

A.M.4:30起床、 手早くシャワーを浴びて身支度を整える。
A.M.5:30出発、 今日は楽しみにしていたガンジス河からのご来光だ。

「ガンジス」は日本語読みであり、正式には、「ガンガー・Gangā」といい、ヒンドゥー教に伝わる女神の名からきているそうだ。
また仏典では、恒河(こうが)と記し、ガンジス川の砂という意味の“恒河沙(ごうがしゃ)”というは、数の単位の一つになっている。
ガンガー河は、ヒマラヤ山脈の南麓ガンゴートリー氷河を水源とし、ベンガル湾へと流れ込む全長2,506kmの大河である。
ここヴァーラーナスィを流れるガンガー河は、インド全人口の約80%を占めるといわれるヒンドゥー教徒が、一生に一度は訪れたいと願う聖地である。
なぜヴァーラーナスィなのか?
それは、インドの北から南へと流れているガンガー河が、ここヴァーラーナスィでは唯一、南から北へと河の流れが向くそうで、下から上、つまり“天へ昇る”という意味から聖地として崇められるようになったのだそうだ。
その為、毎年100万人を超えるヒンドゥー教徒が転生を信じて巡礼に訪れ、来世での幸せを願い、現世の罪を聖なる河ガンガーで洗い流す為に沐浴をするのだという。
また、聖なるガンガーの河畔で火葬に付し、その灰を母なる河ガンガーに流すことは、死者に対する最大の敬意とされる為、生者も死者も、ここを訪れる者は後を絶たないのだという。

2570843Hotelからバスで15分ほどの、ガンガー河畔に近い街の中でバスを降りた。
まだ辺りは暗く、人もそれほど多くはないが、バスを降りるとすぐに仏花売りが近寄って来てさっそく商売を始めた。
夜明け前の街角には牛達もまだ就寝中で、そんな都会の牛たちを横目で見ながらガンガー河へと向かって歩いていくと、OPENしている店も増えだし、徐々に賑わいの中へと入っていった。
10分程歩いた所でチャイをいただく店先のベンチに座る。
その店の青年なのか、それとも客なのかわからないが、誘われるままにその店の中へと入っていくと、チャイを作っているのを見せてくれた。
大きな七輪のような火鉢に炭を焚いて、その上に使い古されたナベを地下に乗っけて、ミルクを温め砂糖やシナモンなどのスパイスを適当に加え、最後に茶葉を放り込み、それを網でこしたものをヤカンに入れてから、素焼きのカップに注いで配ってくれた。
温かくて、とても美味しかった。
チャイを飲んでいると、今度は隣りの店のお客に声をかけられてヒョコヒョコとついて行くと、生ゴミのような葉っぱに缶詰のDogfoodのようなものを巻いて、それを食べて見せてくれた。
「それって食べ物?」 と聞くと、 「美味しいよ!」 って笑顔でジェスチャーをされた。
でも・・・・・ 私は絶対に食べたくない!

Guideのジャマールさんに促されて、私たちが再びガンガー河へと歩き出すと、先ほどチャイを飲んだお店で声をかけてくれた二人の青年も一緒について来た。
「何で一緒に来るの?」って聞いたら、「かわいいね」って言われて、英語が通じないのかな~と思ったら、この二人、私たちの乗る船の船頭さんだった。

暗闇の中にガンガー河が見えた。
ガンガーのガート(河岸沿いにある階段状になった石段)の一部のような階段を下ると、その中央の手すりの脇には物もらいたちが上から下へと一列に並んで座っていた。
この人たちは、来世の幸せを願って沐浴をする余裕すらもなく、今を生き延びることに必死なのだと思うと、まっすぐに見ることができなかった。

2570844ガンガー河よりヒンドゥー教徒の沐浴と日の出を見るために、私たちは一艘のBoatでガンガー河の沖に出た。
辺りはまだ暗く、岸の明かりがとても美しく輝いていた。
そういえば、ここヴァーラーナスィはお釈迦様の時代、「カーシー」という名で呼ばれ、「光の都」という意味だと本に書いてあったことを思い出して、なるほど、光り煌めく水の都だな~と思った。

乗船した時に手渡された灯篭、乾した葉っぱで作られた直径10~15cmほどの小さな皿の上に花びらを敷き、小さなロウソクを載せたものをガンガーへと流した。
死者への弔いかな~ぁ・・・・・   きれいだったけど、何となく切なかった・・・

船上ではまだ薄暗い中、Guideのジャマールさんが何やら説明をしているが、ガンガーの雰囲気に圧倒され、興奮している私にはその声は届かない。
次第に薄れゆく闇と、徐々にそのすがたを表わし始めたガンガー河から見るヴァーラーナスィの街に、時は一刻として留まることはないのだということをハッキリと知らされる。

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ガンガー河の西岸に建ち並ぶ屋敷は、かつての王族や富豪の別荘だったというが、私が昨日まで目にしてきたインドの風景とはあきらかに異なり、ここインドの歴史的文明の一端を垣間見ることが出来た。
その西岸にのびたガートでは、沐浴をする者、洗濯をする者、ヨーガをする者、散歩をする者、瞑想にふける者、皆それぞに、それぞの朝を迎えた街がそこにあった。

2009年2月4日(水) 四日目の総括 [アジア]

ブッダガヤから250km、6時間弱のDriveでヴァーラーナスィに到着したが、ここでスケジュールの変更があり、明日行く予定になっていたシルク工場でバスは停まった。P.M.5:50 
工場と言っても、手動の機織が2,3機置いてあるだけの小さな店で、工場見学には10分も要しなかったが、Shopには1時間も足止めされた。
ヴァーラーナスィのシルク(バラナシシルク)は有名で、少しは興味があったものの、この店の店員の態度がすごく悪くて、まったく買う気が失せてしまい、Memberが楽しそうにshoppingをしている中、居場所の無い私にはとても疲れる時間となってしまった。
同室のMRさんも店員の態度にはご立腹で、買い物をしない4,5人のMemberにはとても退屈な時間であったが、お買い物Groupにとっては楽しい時間となった。

シルク店とは目と鼻の先にある本日のお宿、クラーク・ベナレス Hotelに到着したのは、既に7時を回っていて、バスから直接Hotel内の夕食会場へと案内された。
昼食を抜いたMRさんが夕食も辞退されたのでますます心配になったが、まずは自分の腹ごしらえをした。
夕食が終わって各自部屋に戻ろうと席を立ちRestaurantの出口に向かうと、そこでMemberの数人が何やら騒いでいた。
MK先生の手荷物がなくなったと言うのだ。
私たちはバスを降りてから直接このRestaurantへと案内されたので、各自貴重品以外の手荷物は、指示されるままにこのRestaurantの出入り口の脇へと置いた。
しかし、Member全員の手荷物を一つにまとめて置いたはずなのに、いつの間にか二箇所に分けて置かれており、なおかつMK先生の荷物だけなくなってしまったというのだ。
MK先生は、「自分は絶対にここに置いた」と言って青い顔をしておられた。
数人で手分けをして探したがMK先生の荷物は見つからず、IKさんが気遣うつもりで、「バスの中も見てきてもらいましょうか」と声をかけたのだが、MK先生は、「僕がここに置いたと言っているのに、君はそれを疑うのか!」と強く言い返され、憤慨されてしまった。
私は手もでず声もかけられず、部屋で休まれているMRさんの体調も気になっていたので、失礼ながらその場を後にした。

部屋へ入ると、思っていたよりMRさんの顔色はよかったので安心した。
でも、MK先生の事件を報告をすると、「みんな疲れてきてるね~」と言ったMRさんだったが、私が洗面所から出てきた時には、(アッ!という間に)MRさんからは寝息がたっており、寝ている彼女に、「MRさんが一番疲れてるね~」と声をかけて、私は一人静かに就寝準備を始めた。

ベッドに入ってからS先生の本を読むと、今日、私たちがバスで走ってきた道を、お釈迦様は何日もかけて歩いて行かれたのだと書いてあった。
ブッダガヤの菩提樹の下で成道されたお釈迦様が、かつて共に苦行に励んだ五人の比丘らにこの法を説こうとブッダガヤを旅立たれ、その比丘らが住むサールナート(ヴァーラーナスィの北隣り)へむけて一人歩かれた旅路であると。
今日、目にしてきた風景が脳裏によみがえる。
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水辺から遠い大地には草木も生えぬ荒涼とした風景が喉の渇きを誘い、
緑広がる田園地帯では青々とした新芽が乾いた風を受けてなびき、
どこまでも広がるカラシ菜畑には黄色の花が色鮮やかに咲き乱れている。
国道沿いのササラム、モハニア、チャンダウリなどの小さな町で暮らす人々は、足速く行き交う車とは別の時間を過ごしているかのようにのんびりと時を過ごす。
その傍らで、行き倒れたヤギや牛の死骸をついばむ生き物たちが、今を必死で生きていた。
お釈迦様が歩かれた道は…、 
お釈迦様が目にされたものは…、 
お釈迦様がお感じになったことは…、
そんなことを自分勝手に思い描きながらベッドに横たわっていたら、鼻がツーーーンとした。
「ヤバい、また鼻血だ[exclamation]」  慌てて洗面所に駆け込む。
あ~あ・・・・・   “お釈迦様と私” な~んてテーマで、ゆっくりと、自分を見つめる時間なんてありゃしない!!![ふらふら]

2009年2月4日(水) ブッダガヤ → ヴァーラーナスィ(ベナレス) [アジア]

A.M.11:10 Sujata Hotelに戻り、早めのLaunch time。
昨日までガッツリ食べていたMRさんが体調不良のため昼食を抜いたのが心配・・・
インド初日に患った腰痛をこらえての今朝のジープが、かなりしんどかったみたい・・・
出発前に、このHotelの名物にいちゃん(大阪弁のインド人)から、Hotel直営のインド料理レストランが京都にあるとの宣伝を受けたMK先生が、そのチラシ(割引券)をもらったと言って私にもくださったので、チョットだけ紹介。
京都三条通のタカセビル2Fにある [レストラン]INDIAN RESTAURANT Sujata さんだ。

P.M.12:00 ブッダガヤを後に、(日本名で)ベナレスへと向かう。
正式には、Varanasi ・ ヴァーラーナスィなのだが、イギリスの植民地時代に、間違った英語表記によって誤読され「ベナレス」と日本では言っているが、実際にはそのような地名は存在しない。

256869230分ほど走って、インド入りしてから初めて見る、片側二車線の整備された道路に入る。 
国道2号線(Highway)である。
東はウェストベンガル州のカルカッタからインドの首都デリーまでを結ぶ全長約1,500kmのHighwayだ。
しばらく走った所で、R2、ヴァーラーナスィまで228kmと書かれた標識を発見。 今日は、Long Drive だ。

そのHighwayを20分ほど走った所に、初めてInterChangeらしきGateを発見。
高速道路と言っても、日本の有料道路のようにINからOUTまで途中乗降不可で、距離によって算出された料金を支払うというのではなく、通行途中にある関所を通過する度に料金を支払うのだそうだ。
Driverさんが料金所のおじさんに通行料を支払うと、その前方で待機しているもう一人のおじさんがDriverさんより差し出された小さな用紙(免許証かな~?)を確認して、OKだったらそのおじさんが手動でGateをガラガラガラ~と動かして開ける。
とてものどかでシンプルなシステムだ。

それにしてもインドのHighwayというのは、ここら辺りだけなのかもしれないが、とてものどかだ。
田園地帯の中を走るから‘のどか’と言うのではなく、この道路自体がおそろしく‘のどか’なのである。
日本の高速道路では考えられないが、インドのHighwayには農道との交差点もあるし、側道には民家も商店もある生活道路の一部として存在している。
だからHighwayと言えども、自転車も走っているし、人も横断するし、ヤギやヒツジの群れも歩いている。
牛なんかはHighwayをのんびりと横切って、中央分離帯の上で食事(草)をしていたりもする。
その中央分離帯では、燃料となる牛のウンコが日干されていたり、時々、人間様も日向ぼっこか、お昼寝などをしていたりと、日本では国道と言えどもこのようなのどかな幹線道路はお目にかかれないだろう。

2568703一番驚くのは ← この写真のような状況が頻繁に起こることだ。
[目] おわかりだろうか?
インドは日本と同様、車は左側通行で、この高速道路は片側二車線(計四車線)の道路であるにもかかわらず、当たり前のように右側通行をする車が多い。
ごく自然な光景なのだそうだ。

私たちが乗っているこのバスも例外ではなく、時々右側通行をしては私たちにそのスリルを味合わせてくれる。[わーい(嬉しい顔)]
右側通行の逆走をしながら、前方の車に追い越しをかける時なんか、正面衝突寸前のドラマを見せてくれるが、これはのどかな風景とは言えないな~ぁ。
でも、Guideのジャマールさんの話しによると、決して譲り合わないくせに、事故は少ないそうだ。

ブッダガヤのHotelを出発してから3時間、二度目のトイレ休憩に立ち寄ったShopで、チャイとクッキーのTea Time 。  I’m Happy [揺れるハート]

更に1時間近く走った所でビハール州からUP州(ウッタル・プラデーシュ州)へ、丸太棒のGateを手動で開けてもらっての州越え。
インドの道路行政は州や地方の力が強く、州ごと(時には郡ごと)に通行税が施行されていて、バスや輸送トラックなどの営業車は州境の検問所で越境のたびに越境税を支払わされるのだそうだ。

UP州に入ってからはやたらとトラックが多い。
それも走行しているトラックではなく、Highwayの側道の両脇に、何kmも延々とトラックが駐車してある。
その理由を聞き忘れてしまったことに、今、気付いた・・・  残念!

P.M.4:50 ヴァーラーナスィまで12kmと書かれた標識(デリーまでは809km)をくぐる頃には、西の空に傾いた太陽が赤く染まり始めていた。
P.M.5:20 ヴァーラーナスィの郊外でHighwayを下りて、バスは市街地へ入って行った。
ビハーラ州とは異なるインドの街の風景。
2568710信号機の無い交差点になだれ込む人やバイクや車の群集、 今にも崩れ落ちそうな古い建物が互いに寄りかかって林立する家々、 道沿いのゴミの山と立ち並ぶようして屋台の商店が軒を連ね、そこに群がる人々。
こんな街の中でも悠々と牛が歩き、人も車もそれをよけて前へと押し進むその風景には、ただただ圧倒されるばかりであった。
ヴァーラーナスィの街は、砂埃と排気ガスと騒音に包まれたまま、夜を迎えようとしていた。

2009年2月4日(水) ブッダガヤ ( 苦行林 ・ スジャータ寺院 ) [アジア]

2566126ネーランジャヤー(尼蓮禅)河の東岸、セーナ村(スジャータ村)の南にあるウルヴィルヴァーの林で、お釈迦様は6年間の難行・苦行に打ち込まれたと伝えられる。
Guideのジャマールさんの話しでは、「お釈迦様が実際にどの辺りで苦行をされていたのかは定かでない」ということだが、当時、バラモンや仙人などがこの河の畔に住みつき解脱を求めて修行生活を送っていたといわれていることから、経典などの記述より、ここウルヴィルヴァーの苦行林でもお釈迦様はご修行されていたであろうということで、今回の見学コースのRouteになった。

乾季の川とも砂漠とも区別のつかぬ砂地の道の先にその苦行林はあった。
林というにはあまりにも木が少なすぎるな~と思ったが、『聖求経』には、かつてこの一帯は、鬱蒼とした樹林に覆われ、ネーランジャヤー(尼蓮禅)河の畔には草花が咲き乱れていたと記されている。
苦行の原語はTapas(タパス)といって、「熱」を意味する言葉で、断食に代表される肉体苦によって神秘的な熱力が獲得され、霊力を発揮し目的を達せられると考えられていた。

『獅子吼大経(マハーシーハナーダ・スッタ)』に、お釈迦様ご自身が、最高苦行者・最高貧卑者・最高嫌悪者・最高独住者と宣言された、その難行・苦行の様相が説かれている。
○最高苦行者として、裸行・脱糞行・なめるだけ少量の食事・招請を受けない・居留を受けない・招待を受けない・持ち来たものを受けない・指定されたものは受けない・壷や鍋の口から受け取らない・敷居の内や杖の間にあるものは受け取らない・妊婦、授乳中女性の女より受け取らない・飢餓の際の施し物は受けない・犬、蝿が群がる所では受けない・魚、肉を食べない・穀酒、果樹酒、粥汁を飲まない・一軒の家から一口だけ、二軒の家から二口だけ、七軒の家から七口だけ貰って食べる・一施与によって暮し、二施与によって暮し……七施与によって暮す・一日に一食、2日に一食……七日に一食を摂り、半月に一食とるに至るまで、捧げられた食物を受けて食べることを実践す・野菜、ひえ、玄米、ハタ草(こけ)、飯汁、胡麻粉、草、牛糞、森の樹木の根や果実、自然に朽ちた果物を食べる・麻衣、麻の混織の衣、屍衣、糞掃衣、ティリータ樹皮衣、皮衣、草衣、樹皮衣、木片衣、髪毛布の衣、ふくろうの羽毛の衣を着る・髪と髭を引き抜く・常立行をなす・常にとげのある床に臥す・坐具を拒絶す・一日に3回の沐浴をなす。
○最高貧卑者として、体に塵垢が蓄積し皮苔が生じても動ぜず、
○最高嫌悪者として、進むも退くも土の上は注意深く進み、一滴の水にさえも憐慰の心を起こして、不平等なる境遇にある小さな命を殺害せぬよう、
○最高独住者として、人里はなれた森林に住み、牧牛者、採草者、採薪者などに見つからぬよう逃げる。
これほどの難行・苦行は、過去にも例が無く、未来においても無いであろうと説かれたほど苛烈極まりないご修行をされたそうで、その6年間の難行・苦行で痩せ衰えたお釈迦様のお姿は、パキスタンのパンジャブ州で発見された「釈尊苦行像」(AC2~3世紀作の国宝)より忍ぶことができる。

ここ苦行林跡には現在ヒンズー教の寺院があり、私たちが行った時には、なぜかその入り口にたくさんの子供たちが整列していて、大根役者のような物乞いの女性とそれを叱咤する男性がいた。
それらを無視して境内に入って行くと、奥の寺院からはテープによる教のようなものが聞こえ、中央の建物には、コンクリートで作られた直径1.5m・深さ3mほどの井戸があって、ここでお釈迦様が水行をされたというのだが、何だか怪しい感じだった。
今は水は無く、底にはわずかばかりのお賽銭が投げ入れられていた。
怪しいと言えば、この寺院には現地人のおじさんたちが無意味にタムロしていて、Guideのジャマールさんを取り囲みChipの請求をしていた。(~_~)

2566145次に向かったのは、ここから目と鼻の先にある、乳粥の供養地・スジャータ寺院である。
同じくネーランジャヤー(尼蓮禅)河の東岸に位置し、お釈迦様はセーナ村の地主の娘・スジャータより乳粥供養を受けられて体力を回復され、前正覚山に向かったと伝えられる。
手製の木橋(5m位)を渡って、乳粥を受けたとされる場所に建つ白い乳粥林寺院には、乳粥を捧げるスジャータとそれを受けるお釈迦様の姿を再現した像が二箇所に設置されてあった。
しかし・・・・・・ 最初に見た像のお釈迦様は、コンクリートで出来たふくよかな顔立ちとお体に、全身カラフルな着色が施され、チョットいただけない笑みを浮かべておられて、とても苦行の末に乳粥を受けているようには見えなかった。(あれは無いほうのがいいと思う。(^_^;))
その裏には小さなストゥーパが祀られ、更にその裏にはもう一つのお釈迦様とスジャータの像があり、こちらのお釈迦様は苦行の末に痩せ衰えた身体を金色に塗られてはあるものの、まぁ~見れた。
その像の前で、KY夫妻がお釈迦様とスジャータの寸劇を披露してくれて、これがとても面白かった。

何の不自由の無い城内で、王子として29歳まで生きてこられたお釈迦様が、それまでの生活とは一転され、この世の苦しみの限界までご自身を追い詰められた生活をされた末に、これもまた捨てられたと言うことは、お釈迦様は二度もご自身を完全否定なされたと言うことになる。
私には自分を捨てるなんてことは到底出来ない。
お釈迦様がご自身を信じて臨まれた6年間もの難行・苦行を捨てられた、その時の心の葛藤はいかほどであったのだろうか・・・・・
スジャータより乳粥を受け取る時のお気持ちは、どのようなものであったのだろうか・・・・・
私たちは、お釈迦様が生きてこられたその足跡を、いとも簡単に口に出しては感動しているふりをするが、私には、生・老・病・死の四苦で苦しまれたお釈迦様のお気持ちもわからなければ、苦行に苦しまれたお釈迦様のお気持ちもわからない。
ましてや、なぜここまでして解脱を求めることが出来たのかなんて、さらさら想像もつかない。
しかし、お釈迦様はこの地でお生まれになり、この地で正覚を悟られ、この地で法を説かれたというこの事実は、国を越えて、時を越えて、今、この私に届けられているのだと思うと、あまりに簡単にお釈迦様云々と言っていること事態に罪の意識が芽生えてくる。

2009年2月4日(水) ブッダガヤ ( 前正覚山 ・ セーナ(スジャータ)村 ) [アジア]

A.M.5:00 起床  早く目覚めすぎて、7:30出発までの時間を持て余してしまった。
今日の最初の目的地は、前正覚(プラーグ・ボディ)山ということだが、大型バスでは通れない道を行くので、5台のジープに分乗して向かうことになった。
私が乗ったジープには、S先生とMK先生とIGさん、それにTourConductorの拓郎さんが乗り込んだ。
ジープの乗り心地は激しい振動を伴うものの、バスよりも視線がグ~ンと下がるので、窓から見える景色も違って見え、私は思いのほか楽しめたが、MRさんは腰痛が悪化し、この日の昼以降、食事も摂れないような状態になってしまった。

前正覚(プラーグ・ボディ)山はブッダガヤの北東部にそびえる標高150mほどの岩山で、南北に細長く5kmほど連なっている。
Hotelを出発したジープは、朝もやの中、閑散とした村の中を突き抜けるまっすぐに伸びた一本道を進み、砂丘のようなネーランジャヤー(尼蓮禅)河を渡ると未舗装の村へと入っていった。
前方を行くジープが巻き上げた砂埃が、朝日のスクリーンとなって視界を遮り、好条件とは言えない中で写真を撮り続けるも、私にとっては楽しい時間となった。
15分ほど走った所で再びアスファルトの敷かれた道を進むも、所々で道路が陥没しているのでConditionとしては決して良いとはいえない。
途中、Gasstationに寄って給油をしている間に、男性陣が車の前方で青空トイレをはじめたので、視線のやり場に困って後ろを向いたら、そちらの壁でも現地の男性が何やらその~・・・・・(;^^ゞ
給油を済ませて再び走り始めると、荒涼とした平原の右手前方に、白くかすんだ前正覚山がうっすらとその姿をあらわした。
メイン道路から右折した道路は、両脇にパームツリーが立ち並ぶ赤土の細い道で、その先にある村は、土壁に藁葺きの屋根を乗せただけの簡素な作りでありながら、とても美しい風景を作り出していた。
その村を抜け、道無き道を進むと、大平原の中で不自然に隆起した岩山のたもとへとたどり着く。
前正覚(プラーグ・ボディ)山である。

2566031車で40mほど登ったところにある駐車場でジープを降り、そこからは徒歩で急勾配な坂道を40mほど登ると、山の中腹にあるコンクリートを白く塗っただけのチベットのラマ教寺院にたどり着く。
更に階段を上がると、その境内にお釈迦様がこもられたと伝えられる留影窟(ドン・ゲシュワリー)とよばれる苦行窟がある。
その入り口は長方形にコンクリートで固められて、淵にはペタペタと金箔をはられた無粋なものであったが、中に入るともっとエゲツなく、狭く、真っ暗闇の中に、蝋燭の炎で黄金色に浮かび上がった、苦行で骨皮になられたお釈迦様の像の前で、「お賽銭、お賽銭」とひたすらに声をかけ続けられる。
お釈迦様が、ここで、どのようなお気持ちで苦行をなされていたのかなんて、思いにふける雰囲気ではない。

お釈迦様は、出家をされてからの6年間、難行・苦行をなれさたが、この身を痛めても悟りは得られぬ、このままでは命さえも尽きてしまうと、苦行・断食を捨てられて、ネーランジャヤー(尼蓮禅)河で身を清め、スジャータより乳粥の供養を受けた後に、悟りの場所を求めて瞑想のために向かわれたのがこの前正覚山だといわれている。
しかし、瞑想に入られたお釈迦様に、地神や留影窟の龍が、「ここは悟りを開く場所ではない。 ナイランジャヤー河畔に聳えるピッパラ樹の下へ行け」と諭したことで、お釈迦様は座を立たれて(現)ブッダガヤの菩提樹の下へと向かわれたのだと伝えられている。
これゆえに、正覚を成就される前に登られた山という意味で、「前正覚山(ぜんしょうがくさん)」と名付けられたのだという。
また、お釈迦様がこの留影窟を立ち去る時に、竜の願いを受けて、この洞窟内の壁に自らの影を残し留めたことから、お釈迦様の影が留まる窟という意味で、「留影窟(りゅうえいくつ)」と呼ばれるようになったのだという。

その留影窟の外で説法をしているチベット僧らの脇を通り抜けて、再び登ってきた道を下りて行くと、ラマ教寺院を出てすぐに、手を伸ばす物乞いたちの洗礼を受けることになる。
車に乗ってもなお、車窓を叩いて物乞いをする母子の姿に、Memberの一人が、耳をふさいで目をつむった。
お釈迦様がどうとか、仏跡がどうとか思う暇も、静かに心を落ち着けられるような場所もない。
ただ、ただ、物乞いをする者達を哀れむふりをしながら、ハエのように疎ましく思っている自分というものを、嫌というほど見せ付けられるのみである。
何となくイヤな思いを乗せたまま、ジープは次の目的地へと向かって走り出した。

行きに来た道とは違うRouteでジープは未舗装の悪路を村から村へと通り抜ける。
もう何百年も時間の止まったようなその村々の風景は、イヤ~な気持ちを忘れさせてくれるほどワクワクした。
TourConductorの拓郎さんも初めて通る道を、興味深そうに見ていた。

2566021たどり着いたのは通称スジャータ村である。
正式にはセーナ村と言うらしい。
ネーランジャヤー(尼蓮禅)河の東岸にあるセーナ村の地主・セーナーパティの娘であるスジャータが苦行に身を窶したお釈迦様に乳粥を捧げことで有名になった村なので、この集落をスジャータ村と言うようになったそうだ。
その村はずれにあるスジャータの住居跡といわれる場所からストゥーパの跡が発掘され、五世紀頃・グプタ朝時代に建設されたといわれるその巨大なストゥーパ(高さ18m・直径35m)は、その頃とほぼ変わらない田園風景の中に再生された。

2566028セーナ村(スジャータ村)では米(麦?)の脱穀作業が間近で見られ、現在も変わらずにすべて手作業で行うその姿に、お釈迦様の時代のインドを見たような気がした。

2009年2月3日(火) 三日目の総括 [アジア]

ブッタガヤ大菩提寺を参拝した後、今日の宿・スジャータHotel直営の土産物屋に連れて行かれた。
小さな店内には御念誦と木彫、それに仏画が売られていた。
今回の旅で仏像を購入したいと思っていたので、多少の興味をもって店内を見回してから、店員の一人に仏像の説明を求めた。
当たり前のことだが、ここで仏像と言ったらお釈迦様の像のことであるが、ためしに「阿弥陀仏の像はあるか」と尋ねてみると、「一つだけある」と言ってそれを見せてくれた。
それは、日本では見たことのないほど簡素なというか、ほぼ裸体に近いような薄い衣をまとっただけの立像の阿弥陀様であった。
チョット惹かれたが、値段がUS$310(¥30,000)と言われて、とても買う気にはなれなかった。
お釈迦様の像を見せてもらうと、苦行の像と、涅槃の像と、それからこれが一番のお勧めと言って成道の像を棚より取り出して見せてくれた。
私は成道の像を手にして値段を聞いてみると、US$130(¥12,000)だと言われて、これをUS$100(¥9,500)にしてもらいアッと言う間に交渉成立、購入することにした。
(もっと安くなったかもしれないが、ゴチャゴチャするのがわずらわしかった(^.^))
そこへMK先生が登場し、「ボクもそれ買ったよ! いくらで買った?」と聞かれたので、私が、「US$100(¥9,500)で買った」と答えると、MK先生はあわてて店員を呼び止めて、「ボクも同じのにしてよ~!」と依頼した。
聞いてみると、私が購入したものと同じ型・同じサイズのものを、MK先生は始め¥17,000だと言われ、値引きをした値段が¥13,000になったものの、結局、¥10,000で別のサイズの物を購入されたらしい。
ところが私がUS$100(¥9,500)で購入したと知って、店員に直訴されたのだ。
店員は快くMK先生の依頼を受けて商品の交換をし、私はMK先生からお礼まで言われて、丸く解決した。

土産物屋を出てHotelに戻ったのはP.M.6:30。
この日も入浴は大浴場(と言っても、洗い場が三つだけのとても小さなもの)にみんなで入浴して汗を流し(たつもりが、更衣室が狭過ぎて、風呂上りには汗だくになりつつも)、P.M.7:30からの食事に大急ぎで出かけた。
2564263
この日のDinnerではやっとインド料理にめぐり合え、お釈迦様が苦行の末にスジャータより捧げられて口にされたと言う“乳粥”も食することが出来た。
味はともかく(まずくはない)、インド料理が嬉しかった![黒ハート]

今朝は早朝から霊鷲山への登山をし、七重の牢獄跡、竹林精舎、ナーランダ大学跡、そしてブッタガヤ大菩提寺の見学・参拝と、あまりに盛りだくさんのスケジュールに頭が少し混乱している。
出来ることなら、お釈迦様の ご誕生の地 → ご成道の地 → 初転法輪の地 → 王舎城からの最後の旅 → お涅槃の地 と、順序よくまわりたいと思うのだが、これは無理というもの・・・ わかっている・・・

部屋に戻ってからは洗濯をしながら、同室のMRさんといろいろな話しをした。
夜、MRさんとお話している時だけが、唯一、私らしく、自分と言うものに正直に向き合える時間であった。
MRさんはご自身の体調が思わしくないのに私を気遣ってくれて、夜、あまり眠れていない私のために、遅くまでおしゃべりに付き合ってくれた。
何気ない会話の中にも仏法って存在しているんだな~って、MRさんの話しを聞いていて改めてそう思った。
この日は、ぐっすりと眠れた。

2009年2月3日(火) ブッダガヤ ( マハーボーディ寺 (大菩提寺) ) [アジア]

2563820本日のお宿 ブッダガヤのスジャータHotelに着いたものの、ここはトイレ休憩のみで、私たちは再びバスへと乗り込んで、数百メートル先にあるブッダガヤの大菩提寺(マハーボーディー寺)へとあわただしく向かった。
ブッダガヤの寺院前は、人やオートリクシャーでごった返していて、チョトよそ見をしただけでGroupからはぐれてしまいそうな位混み合っていた。

ブッダガヤの大菩提寺(マハーボーディー寺)は、お釈迦様 成道の地であり、四大聖地の一つとなっている。 また2002年にユネスコ世界遺産に登録されている。

お釈迦様35歳の12月8日、明星輝く夜明け前のこと。
ガヤの町から南へ10kmほど下ったネーランジャヤー(尼蓮禅)河の西岸に聳えたピッパラ樹(菩提樹)の下で、お釈迦様はボーディ(菩提・悟り)を得て、ブッダ(仏陀・覚者)となられた。
これゆえに、ピッパラ樹は菩提樹(ボーディ・悟りの樹)と名付けられ、ブッダガヤ(ブッダ・仏陀が成道されたガヤの村)と名付けられたのだといわれる。
紀元前3世紀にアショーカ王がここに小さな精舎を建てたことに始まって、紀元前2世紀にはお釈迦様が座して悟りを得られた場所に金剛宝座と、その周囲には石造の欄楯(らんじゅん・柵)が巡らされ、以降、精舎の拡張・修復が繰り返されるうちに、7世紀になって菩提樹の横に大寺院が建てられたといわれている。
しかし、イスラム教徒の暴虐とインド仏教の衰退によって15世紀には廃墟と化し、現在の塔が建てられたのは、19世紀の末にミャンマーの仏教徒が大改修をしてのことだそうだ。

2563823そのブッダガヤ大菩提寺(マハーボーディー寺)の本堂である四角錐の大精堂は、高さが52mあり、その周囲は美しい装飾彫刻で飾られていた。
手持ちの資料によると、大精堂は二階建てで、一階には降魔成道の像、二階には仏立像が祀られているそうであるが、私たちは一階部分しか見学できなかった。
その大精堂の中(一階)に入ると、石壁の室内の中央奥に、全身金箔のお釈迦様の像が座したお姿で印を結んでおられた。
座禅を解かれた右手の指を地に下ろしたこの印を降魔印(触地印)と言うそうで、お釈迦様が瞑想禅定しておられた時に、誘惑をしてきた悪魔を追い払った姿を表しているとのことである。

塔内も人でごった返しており、御香の煙にむせながら、「立ち止まるな、次々と進め」と指示する係員(僧)の声に押し出され、とても心を落ち着かせる暇などなかった。

2563830人の流れにのって大精堂の外へと排出された私たちは、そのまま人波にもまれながら大塔の南側から時計回りに塔の裏手へと進んで行った。
大精堂の裏(西)に回ると、石造の欄楯に囲われたひと際大きな菩提樹が、枝を羽のように四方に広げて大地を覆っていた。
お釈迦様が成道された時にその根元に座られたという菩提樹は、5世紀頃のイスラム教による仏教弾圧によって切り落とされて既に存在しない。
しかし同じ木の枝から育った子孫を各地に移植(挿し木)し、現在の樹は、四代目スリランカのアヌラダープラにあった初代の菩提樹から育てられた、三代目のゴータマ・ブッダの菩提樹を、ここブッダガヤの大菩提寺に移植したものだそうだ。

一段と狭くなった通路に、五体倒地をする人もいて、後ろからは押されども前には進めない状態で、ようやっと菩提樹の下の金剛宝座の前までたどりついた。
ここでインドに来てから二回目のお勤めをする予定になっていたのだが、私たちの他にも読経をしているGroupあり、とりあえずは順番待ちということで菩提樹の下、金剛宝座の前で座して待機することになった。
この時、KHさんが、姉のTMさんとHKさんがいないことに気づいた。
この人ごみの中、大丈夫かと心配したが、Guideのジャマールさんたちが探しに行っている間に、一人の僧侶(タイ人かミャンマー人)が、「あなたたちの探している人は、大塔の東側にいましたよ」と声をかけてきた。
「へっ???」  私はビックリした!!!
このお坊さんっていったい何者? 
どうして私たちのMemberで迷子が出たこと知ってるの??
なんで私に教えてくれるの???
頭の中に?????が並んだまま、ホケ~としていると、迷子になった二人が笑顔で帰ってきた。
その僧侶は、「よかったね」と言わんばかりの微笑をむけて私たちの前から去って行った。
・・・・・・・ 何?  今の・・・・・・・?   なんか素敵 ・・・・・・・!

私が不思議な僧侶の感動に浸っているその横で、Groupの面々のイライラはつのっていった。
なぜならば、読経の順番待ちをしている私たちの視線をものともせず、「なむあみだ~♪」と踊りながら称えている日本人Groupのお勤めが、いつまでたっても終わらないからだ。
両手をお花の形にして空高く差し出し、ひらひらひら~と引っ込めては深々と両手をついてお辞儀をしながら「なむあみだ~♪」とひたすらに称え続けて、5分、10分、15分と過ぎてゆく。
今度こそ最後の「なむあみだ~♪」か? と願いながら聞いているのだが、いつまでたっても終わらない。
もう、日が暮れ始めている。
S先生が、「これ以上は待てません。 隣りでお勤め始めさせてもらいましょう」と言って、私たちの読経が始まった。
隣りではまだ、「なむあみだ~♪」ひらひらひら~が続いているので、私たちMemberはいつもより声をはりあげて、隣りに負けじとお勤めをした。
「こんな読経で意味あるのか?」と思いながも、大声でお勤めを済ませると、ほぼ同時に隣のお勤めも終了した。

お勤めの後、菩提樹の下にある金剛宝座と呼ばれる長方形の石版を拝観した。
この石版(縦143㎝・横238㎝・厚さ13.5㎝)、以前は直接手で触れることも出来たそうなのだが、オウム真理教の麻原彰晃が、自分も悟りを開くのだと言ってこの金剛宝座に座り込み地元住民に引き摺り下ろされるという事件をおこして以来、このような鉄格子で覆われて、現在は手で触れるどころか、間近で見ることすら叶わなくなってしまったのだ。

大精堂の北側に回ると、お釈迦様が成道された直後に菩提樹のもとを離れて、7日ごとに場所を変えては悟りの境地をお楽しみになり、解脱の喜びを味わいながら散策されたと伝えられる、経行所(きんひんしょ)といわれる、細長いコンクリートの台(幅1m・長さ18m・高さ1m)の上に置かれた19個の蓮華の花が一列に置いてある。(はずだが、蝋燭や聖水を置く台と敷物で覆われており、たった一つしか見ることができなかった。)
この蓮華は、お釈迦様が歩かれた足跡から一輪ずつ蓮華の花が開花したのだという伝説のもとに作られたそうだ。

大精堂を後にして、ブッダガヤの南の境内を散策していると、アショーカ王柱の周囲を人々がグルグルと周っているのを見つけた。
聞くと、この柱を一周するとお経を一つ読んだことになるのだとか。
万国共通のまやかしに私も試しに一周まわってみたが、目が回っただけだった。
この後、ムチャリンダ龍王池を見学。
ムチャリンダとはお釈迦様が悟りを開かれた菩提樹の根元に住んでいた大蛇の精霊といわれ、その精霊の王・ムチャリンダ龍王は、仏陀となられたお釈迦様が瞑想している間、その身を呈してお釈迦様を守られたのだとか…。

外灯の灯りはじめた境内には、まだたくさんの巡礼者が行きかっていたが、私たちは大菩提寺を後にHotelへと向かった。

2009年2月3日(火) ラージギル から → ブダガヤ へ [アジア]

「ナランダ」とは、“蓮のある場所” という意味なのだそうだ。
「ナラン」とは蓮、「ダ」とは与える、の意味で、蓮は知恵の象徴であり、知恵を与える場所・知恵を授ける場所という意味で、「ナランダ」と名付けられたそうである。

ナーランダ大学跡の見学を終えた私たちは、道向のナーランダ博物館へ向かった。
ここでトイレ休憩があったのだか、案内されて行ったトイレを見てたじろいてしまった。
レディース’と表示されたコンクリートの壁面に、約30×40cm四方の薄汚れた白く平たい陶器が5つ、30cm間隔に並んで設置されていた。
2562179「え゛っ! ここで?! 並んですんの?? 
壁もないのに???」
みたいなことを無意識の内にみな口にした[ふらふら] 
「マジかよ・・・・・[たらーっ(汗)]
するか、しないか・・・・・  ど~しようかと悩みつつ、ウロウロとしながらその奥にあった掃除道具入れのような薄暗い仕切りの中をのぞいてみると、その中央部に一つの穴がポッカリと開いている。

ただし、壁のような仕切りはあるけど、ドアとよべるようなものはない。
「ひらめいた! この白い便器のようなものは小便用! そしてこの穴は大便用だぁ!」 という結論に達し、私たちは大便用の仕切りのそこで、順番に用を足し、事なきをえた。
ある意味、青空トイレよりも感動的な出会いだった!

ナーランダ博物館には、ナーランダ大学跡で出土・発掘された(現在も発掘作業中)6~12世紀頃のインド仏教末期の仏像やヒンドゥーの神像などが展示されている。
館内は決して広くはない。 仏教彫刻もせいぜい50体ほどであるが、日本とは一味違うお顔をされたお釈迦様の像は、見ていて楽しかった。
netでは写真撮影可との情報を得ていたが、Guideさんより不可の指示があり、撮影することができなかったが残念!

博物館よりバスに戻ると、Guideのジャマールより許可された一人の物売りがバスに乗り込んできて、ジャマールさんが代行してバスの車内でポストカードの販売を始めた。
私も買お~かな~と思ってジャマールさんに声をかけたのだが、ひたすら無視をされ続け(わざとじゃないと思うけど…)、買う気が失せてしまった。[バッド(下向き矢印)]
結局、物売りはかなりの売り上げを手にし、ジャマールさんやDriverさんとAssistantさんにもMarginを手渡して、数km先でバスを降りて行った。
彼はここからど~やってナーランダまで帰るのだろう・・・ と、私のいらぬ心配をよそに、バスは昨日泊まったHotelで昼食を食べる為に朝来た道を戻って行った。
昼食は、予想通りの和定食(うどん付き)。
いったいいつになったらインド料理を口に出来るのだろうか・・・・・

午後1:00 バスはHotelを出発して、ブダガヤへと走り出した。
Routeは昨日来た道をそのまま空港まで戻って、さらに南へと下る。
Hotel東側の道を南に向かい、その突き当たりの道を左折してしばらく行くと左手には竹林精舎、右手には温泉精舎が見えてくる。
その突き当りの道を今度は右折すると、旧王舎城を北門から入るかたちになり、七重の牢獄跡を左手にさらに進むと南門へと続く。
昨日から何度も通っているのですっかり覚えてしまった。
旧王舎城の南門付近は、昨日とはうってかわって人気がなくひっそりと静まりかえっていた。
途中、車道を歩く牛や、ヤギや、羊の群れを追い越して、道路の脇に咲く白や黄色(ゴールデンシャワー)の花の咲く木を車窓より眺める。
バザールを通り抜ける時には、店頭に形よく並べられた商品に目を奪われ、不思議な食べ物を見た時にはゴクリと唾を飲み込んだ。
町は、ゆったりとした時間の中で今日を生きていた。
私たち日本人が、生活をする為に生きているのとは違い、この町では、生きる為に生活をしているのだと思った。

2562186またバザールには食料が溢れかえっていた。 
Guideのジャマールさんから、インドの食料自給率は100%だと説明を受けたが、あきらかに売れ残ってしまうだろうほどに山積みにされた食料の行く末を心配して、帰国後チョット調べてみた。
インドの食料自給率は、130%だそうだ。 つまり、自国では余りあまって輸出に回しているのである。
しかしその輸出も、地方の農村部までは管理の手が回らず、インドの食料廃棄率は70%をはるかに上回るというのだから驚きである。
農業世帯は総世帯の75%にもなるが、しかし、デリーなどの都心部でIT企業に就職した新卒者の初任給が月/約30万円であるのに対して、地方の零細農民(農業世帯の30%)の収入は、月/5,000円に及ばないという。
また、日本ではエリートと呼ばれる人たちの自殺者が絶えない一方で、ここインドでは生活に困窮した農村部での自殺者が絶えないというのも、“生きる”という意味で、深く考えさせられる統計である。

ラージギルから2時間半ほど走ってガヤの南東部でバスが停車し、Guideのジャマールさんが、「左手の山頂にある建物が、ゾロアスター教の寺院だ」とガイドした。
私は始めて耳にした名前だったが、MRさんは大学で少し学んだと言って、興味深そうに質問していた。
ゾロアスター教は、光や火を崇拝するため拝火(ハイカ)教とも称されているらしい。
そこからさらに15分。 やっと目的地であるスジャータHotelに到着した。

2009年2月3日(火) ラージギル ( ナーランダ大学跡 ) [アジア]

朝食後は各自部屋に戻って、シャワーで汗を流し、荷物のパッキングをした。
そして集合時間になってもMemberがなかなかそろわないと思ったら、みんなHotelのShopで、土産物を物色中とのこと (^^ゞ
バスの中では、さっそく購入したばかりのウン万円もする御念誦を見せ合いながら、いくら値切った~など、インド式Shoppingの話題に花が咲いた。
私とMRさんは、「あ~あ、そんな大枚を叩いちゃって~・・・」と、小声で密談 (^_^;)
みなさん、ここはインドですよ~!
日本物価での買い物は、いくら値切って買ったとしても、ゲームとしては負けですよ~

さて、80歳というお年をむかえられたお釈迦様の最後の旅の出発地となったのは、ここ王舎城からであった。
アーナンダ(阿難陀)尊者を伴われて、王舎城の北門より出られたお釈迦様は、当時主要な通商路を十数km北に進まれ、ブッダガヤの北東に位置するナーランダ村の富豪・パーヴァーリカが所有するマンゴー園にて一先ず腰を落ち着けられた。

私たちはバスにて北へ向かい、20分ほど走った所にあるナーランダ大学の門前でバスを降りた。
出来ることなら、せめてこれ位の距離は、お釈迦様と同様に歩いて行きたいと思うのだが、Tourではこれが許されないのが残念であった。

ナーランダ村は、お釈迦様の十大弟子に名を連ねる、智慧第一といわれた舎利弗(シャーリプトラ)尊者と、神通第一といわれた摩訶目犍連(目連・マハーモッガラーナ)の御生誕の地である。

ナーランダ大学は、427年・グプタ朝のクマーラグプタ一世によって創設された寺院であり、世界最古の大学といわれている。
当時10,000人以上の学生と、1,500を超える教員が在籍したとの記録もあり、史上最大の居住型学校であったとされ、9階建ての校舎と、6つの寺院に、7つの僧院があって、図書館には500万冊以上もの蔵書があったという。
12世紀までは歴代の諸王によって庇護され栄華を誇っていたが、1193年にイスラム教徒・トルコイスラム人の侵略によって大学は破壊され、この以降、インド仏教は衰退の一途をたどった。
現在は南北に600m、東西に250mほどの敷地にレンガで作られた建物の骨格と、ストゥーパ(供養のための仏舎利塔)が残っているのみで、大学としての機能は果たしていない。

バスを降りたところですぐに集ってきた物売りも、ナーランダ大学の入場ゲートから中へは入って来なかった。
なぜならば、ここは入場料が必要だからだ。
ちなみにナーランダ大学の入場料は、インド人なら一人5Rsだが、外国人は一人100Rsだそうだ。
先ほどHotelのShopで、25,000円の御念誦を購入された方があったが、この割合で単純計算してみても、現地価格では1,000円程度。
この25倍の相場を考えながら土産物を買いたいと思うのは私だけ(^_^;)?????

Entranceをくぐると、まっすぐに伸びたRoadの両脇に、無憂樹(アショーカの木)の並木道が続く。
S先生から、この無憂樹(アショーカの木)は、三大聖樹の一つで、「天竺菩提樹」は“成道”、「沙羅双樹」は“涅槃”、そして「無憂樹」は“誕生”を表しているのだと教えていただいた。
残念ながら花の季節ではなかったので、花咲く無憂樹を見ることは出来なかったが、橙色から色鮮やかな紅いに変わるというその花を、ここインドで見てみたかった。
この無憂樹並木を100m程進むと、3m程の高さのレンガ塀に囲まれたナーランダ大学の遺跡へと入るGateがあり、ここをくぐればもう校舎だ。
2561429
手近な階段を上がると、レンガ作りの骨格と、大小のストゥーパが一望できた。
ここに9階建ての木造の建物や数々の寺院や宿坊があったと思うと、そのスケールに驚きを隠せない。
しかし風景に気をとられながら歩くと、もれなく落下することなるから、移動する場合は足もとを見ながら進まねばならないことをここに特記しておこう。

Guideのジャマールさんの解説は丁寧すぎて少々退屈と感じてしまった私が、一人フラフラと写真撮影をしていると、不意にMRさんから、「なっちゃん、この人がしゃべってる!」と言って背中をつつかれた。
MRさんの隣に立っていた、オレンジ色の袈裟を着たその僧侶は、ミャンマーから来たのだと話し始めた。
今はボス?と同僚三人とで、インドの仏跡を巡礼中なのだと言った。 とてもきれいな英語だった。

ジャマールさんの説明も一段落し、団体で移動している途中、インド人の少女(18歳位?)より呼び止められ、写真を撮って欲しいと頼まれた。
私が「OK」と答えて彼女からカメラを受け取ろうとすると、彼女は、「違う!私はあなたと二人で写りたいんだ」と言った。
別に断る理由もないので私は彼女の願いどおりに二人並んで彼女のカメラに「ハイ、チーズ!」と収まったのだが、それから予想外の展開になってしまった。
周囲のインド人までも、私も、俺も、と言いながら、私と一緒に写真を撮りたいと集まってきたのだ。
しかも最初に一緒に写真を撮った少女が、あっちでももう一枚、こっちでももう一枚と言いなが、わたしの首に腕を回したまま離さない。
Guideのジャマールさんが再び解説を始めるも、インド人たちには知ったことではなく、私は訳もわからないまま撮影会の中心人物になってしまった。
しばらくして周囲の状況が少し落ち着いてきたので、私はその少女と少し会話をした。
彼女は、父親は家で留守番中で、それ以外の家族全員とで旅行中なのだと話してくれた。
彼女とはもっと話しをしてみたかったが、TourのMemberは既に彼方へと移動してしまっているし、TourConductorの拓郎さんも、「これ以降の撮影は有料にしよう」と冗談を言い始めたので、私はしぶしぶ彼女たちに別れを告げた。

再びMemberと合流するとS先生から、「こっちで話題の有名人に似てるんかなぁ~?」と、ここまではよかったが、「ふくよかな女性はこっちでは受けるんやろか?」といわれ、S先生の深~い愛情?[パンチ]を感じたのであった・・・・・[爆弾]

2009年2月3日(火) ラージギル ( 竹林精舎 ・ 七葉窟 ) [アジア]

2560208七重の牢獄を後にした我々のバスに、物売りたちは飽きもせずついて来た。
バスはHotelへ戻る途中の竹林精舎の前で停まり、バスを降りた我々に、さっそく物売りたちの押し売りが始まって、これを蹴散らして竹林精舎の門をくぐるが、物売りたちも後に続いて入ってきた。
私の横をくっついて歩く、先ほど七重の牢獄跡で仲良くなった物売りの男性に、
「絶対に買わないよって言っているのに、どうしてついてくるの?」と尋ねると、彼は、
「これが仕事だから」と笑顔で答えた。

2560221竹林精舎(ヴェヌヴァナ・ヴィハーラー)は、マガダ国のビンビサーラ王がお釈迦様の教団に寄付した、仏教で最初に建てられた寺院だとされている。

精舎(しょうじゃ・ヴィハーラ)とは、比丘(出家修行者)が住する寺院・僧院のことである。
「雨安居(うあんご)」といって、雨季の間(6月~8月頃)の3,4ヶ月間、お釈迦様はお弟子たちとともに、各自で掘っ立て小屋(精舎)を建てて雨露をしのぎながら勉学にいそしむ。
その為、各地に安居の場所が寄進され、中でも、祇園精舎・竹林精舎・大林精舎・霊鷲精舎・菴羅樹園精舎は、天竺五精舎(てんじくごしょうじゃ)といわれている。

王舎城の北門より500mほど出た所につくられた竹林精舎は、もともと迦蘭陀(カランダ)長者が所有していた竹園で、長者がジャイナ教から仏教に帰依した際、ここを仏教の僧園として奉じ、そこへビンビサーラ王が伽藍を建立したといわれている。
『南伝大蔵経』には、成仏されたお釈迦様がビンビサーラ王との約束を果たすためにマガダ国王舎城に入られ、ビンビサーラ王は12万人の国民を引き連れてお釈迦様を出迎えたとされ、この内ビンビサーラ王をはじめ、一万人余りの人々が在家信者になったと記されている。
この時、バラモンの僧侶であったサーリプッタ(舎利弗)とモッガラーナ(摩訶目犍連・目連)が、弟子250人の行者を引き連れて竹林精舎へ赴き、お釈迦様のお弟子になられたと伝えられる。

現在の竹林精舎は、移植された竹があちらこちらに生い茂り、園内の中央には長方形に掘られた池になっていて、園内には二体の仏像が安置されている。

竹林精舎の南向かいには温泉精舎があり、現在はヒンドゥー教の寺院となっていて、インドで唯一温泉の出る場所だそうだ。
昨夜泊まったインド法華ホテルの共同浴場の湯も、ここの温泉水を利用していると聞いた。
今回のツアーでは見学には至らなかったが、機会があれば行ってみたいものだ。

2560241その温泉精舎の裏手、西に小高い岩山があり、ここにマハーカッサパ(大迦葉・摩訶迦葉)によって提唱され開催された、最初の仏典結集の地、七葉窟がある。
お釈迦様の入滅後間もない時期に、一人の比丘が、「もう師からとやかく言われることもなくなった」と放言したのを聞いたマハーカッサパが、お釈迦様の教説(法と律)を正しく伝承することの重要さを比丘等に訴え、聖典の編纂を提唱した。
そしてマハーカッサパはその教団を統率して、500名の阿羅漢とともにお釈迦様の教法を編集し、最初に付法蔵 (教えの奥義を直伝すること)をした場所が、ここ七葉窟である。
お釈迦様亡き後、アジャセ王は王舎城に舎利塔を建立して供養し、四憐を服して中インドの盟主となり、ここ七葉窟での第一仏典結集に、大檀越としてこれを外護(げご)したといわれている。

A.M.8:00 再びバスに乗って、Hotelへと戻る。
仲良くなった物売り君ともこれでおさらばだ。
ペコペコのお腹を押さえてHotelの食堂へ向かうと、温かいお粥とお味噌汁が運ばれてきた。
・・・・・ ここは、インドではなかったか???

2009年2月3日(火) ラージギル ( 王舎城の悲劇とその後 ) [アジア]

アジャータシャトル(阿闍世・アジャセ)は、父ビンビサーラ王を七重の牢獄に幽閉するとすぐに王位に就き、活発な征服活動を展開し、コーサラ国王やカーシ国を完全併呑し、ヴァイシャーリー国をも支配下に置いた。
この他にも多数の征服活動を行ってマガダ国をインド随一の大国へと押し上げた。

王舎城の悲劇については、『涅槃経』や『阿闍世王経』などのいくつかの仏典において、次ように伝えられる。
父ビンビサーラ王は、毘富羅山(ヴィプラ)に鹿狩りに出た際、一頭も狩りができないことを、たまたまそこに居合わせた仙人が追い払ったと思い込んで、臣下にその仙人を殺させた。
その仙人は死に際に怒りの形相で、「来世において心と言葉でそなたを殺す」とビンビサーラに言い放って死んでいった。
それから間もなくしてヴァイデーヒー夫人が懐妊した。
殺害した仙人の言葉が忘れられないビンビサーラ王は、生まれてくる子がその仙人の恨みを受け継いだ(未生怨)子であることを心配して、アジャセ誕生の前に相師に占わせてみた。
すると相師より、「生兒が怨を懐き父王を殺すだろう」と告げられ、ビンビサーラ王はこれを信じて、生まれてきた我が子を楼上より投げ捨てたが、アジャセは指一本を損じたのみで死ななかった。

成長したアジャセに近づき悪知恵で唆したのが、お釈迦様の教団に反逆し新教団を形成せんとしていたデーヴァダッタであった。

デーヴァダッタ(提婆達多・だいばだった)は、お釈迦様のお弟子である多聞第一として名高い阿難(阿難陀・アーナンダ)尊者の兄であり、またお釈迦様の従兄弟に当たる人物である。
デーヴァダッタは釈迦族の諸王子たちと共にお釈迦様の弟子になったが、お釈迦様に、戒律を厳格に整備して教団の改革を提唱した「五事の戒律」を提案するも、これを拒否された上に、公衆の面前で生活態度を指摘されたことに腹を立て、釈迦教団から分派して独自に新しい教団をつくったとされている。
そして、隙あらばお釈迦様の教団を乗っ取ろうと企み、当時強大な力を誇っていたマガタ国の王を我欲の為に利用しようとしたのである。

デーヴァダッタに唆されるまま、アジャセは父ビンビサーラ王がお釈迦様のもとへ礼拝できぬように足の肉を削ぎ、七重の牢獄へ幽閉してしまった。
また母妃が父王に食料を施していた事を知るや、母妃をも幽閉してしまい、父王を餓死せしめた。
しかし、アジャセは次第にその罪の深さに悔い、心身共に病んでいった。
体中にできた疱瘡が腐敗し、高熱にうなされるアジャセに、家臣のジーヴァカ(耆婆)は、お釈迦様に相談するように勧めた。
お釈迦様のもとを訪れたアジャセは、その教えに感化を受けて、自らの罪を懺悔し、病も快方に向かって以後は、深く仏教に帰依し、教団を支援するようになったと伝えられる。
また、お釈迦様はアジャセに、「父王は自らの罪による報いを受けたのであって、そなたに罪はない」と言ったとされる。
しかし、お釈迦様が涅槃に入られて二十数年の後、アジャセ王は自らが犯した父殺しという罪と同じく、息子によって殺害されたと伝えられる。

一方、デーヴァダッタは、お釈迦様を殺して教団を乗っ取ろうとしたが失敗に終わり、仏教で重悪とされる五逆罪(殺母・殺父・殺阿羅漢・出仏身血・破和合僧)の内、三つの逆罪を犯した因果で、生きながらにして無間地獄に落ちたといわれている。
『大唐西域記』に記された、デーヴァダッタが堕していった穴は、現在も王舎城に残っているという。

2559175霊鷲山からバスの後をついてきた物売りたちが、ここ七重の牢獄跡でも商売を始めた。
どうやら、先の場所でMemberの一人が物売りから何かを購入したことで、この団体は買ってくれるとふんでしつこく付きまとっているようだ。
物売りたちを邪険にし続けているのも疲れるので、その中の一人と話しをしてみることにした。
以外にも、商売に必要な日本語はかなりたくさん知っていて、しかも上手に発音して、ある程度の会話になる。
その知識、他で活かせないのだろうか・・・・・

2009年2月3日(火) ラージギル ( 王舎城の悲劇 / 七重の牢獄跡 ) [アジア]

2558131ジーヴァカの住居・果樹園跡の西に、ビンビサーラ(頻婆娑羅・びんばしゃら)王が、息子のアジャータシャトル(阿闍世・アジャセ)によって幽閉された、七重の牢獄跡がある。
現在は約70m四方の低い土壁が残っているのみである。

15歳にして父王ボーディサの跡を継いでマガダ国の王となったビンビサーラ王は、首都ラージャグリハ(王舎城)の造営と国内改革を推し進めて国力を強大化させ、八万の村落を支配し、東インドに強力な勢力を形成したと伝えられる。
そのマガタ国と競合関係にあったコーサラ国によって征服されていた釈迦族の王(お釈迦様の父王)浄飯王(じょうぼんのう)より、「ゴータマ・シッダルタ王子(お釈迦様)に、カピラ城へ帰城するように勧めてくれ」と依頼されたビンビサーラ王は、コーサラ国の内部撹乱を目的としてお釈迦様に出家を思いとどまるよう説得したものの、お釈迦様はこの申し出を拒絶された。
お釈迦様の強い決意にビンビサーラ王もこれをあきらめ、代わりに「お釈迦様が成道して仏と成られた暁には、必ず私を導いて下さい」との約束を交わし、この後ビンビサーラ王はお釈迦様に深く帰依し、お釈迦様もこの約束を果たされたと伝えられる。

このビンビサーラ王が後に、息子のアジャータシャトルによって餓死させられたというお話しは、『王舎城の悲劇』といわれ数々の仏典に説かれているが、浄土真宗では『仏説無量寿経』によって深く浸透している。
また、善導大師の書かれた『観無量寿経疏』にも『王舎城の悲劇』が記されている。

『王舎城の悲劇』
『観経疏』には、マガダ国のビンビサーラ王とその妃ヴァイデーヒー(韋提希・いだいけ)には長く子供に恵まれず、年老いた王夫妻が占師より、「毘富羅山(ヴィプラ)に住む仙人が死んでから三年後に夫人は王子をみごもるであろう」との言葉を受けて、その三年を待ちきれなかった王夫妻が仙人を殺害した後に身ごもったのが、アジャータシャトル王子であったと説かれている。
そしてその仙人が死ぬ間際に、「呪ってやる~」と言い残したという記述もあるが、実際には、『涅槃経』以外の経典に仙人殺害の記述はない。

『観無量寿経』には、以下のように説かれてある。
マガダ国のビンビサーラ王とその妃ヴァイデーヒーとの間に生まれたアジャータシャトル王子は、デーヴァダッタ(提婆達多・だいばだった)という悪友にそそのかされ、父ビンビサーラ王を捕えて七重の牢獄に閉じこめ、誰一人としてそこに近づくことを許さなかった。
しかし、ヴァイデーヒー王妃は夫ビンビサーラ王を気遣って、自らの身体に小麦粉に酥蜜をまぜたものを塗り、胸飾りにはぶどうの汁を詰めて、密かに王のもとへと運び、ビンビサーラ王はこれを食べ、水で口をすすぐと、耆闍崛山の方に向かって合掌をし、「 どうか親友の目連尊者をお遣わしになり、八斎戒(仏教の八つの戒律)をお授け下さい」と、お釈迦様に願った。
これを受けた目連尊者は、神通力によってビンビサーラ王のもとへ行き、毎日のように王に八斎戒を授け、またお釈迦様は、富楼那尊者を遣わして、王のために説法をさせた。
そして三週間が過ぎた頃、アジャータシャトルが牢獄の門番に「父王はまだ生きているか」と尋ねた。
門番は、「母妃が差し入れる食べ物によって王様はまだ生きておられます。
また、目連尊者や富楼那尊者が神通力により空から来て、王様に説法をしております」と答えた。
アジャータシャトルはこれを聞いて母妃に怒り、「 母は罪人だ。 また術を使って悪王に味方をする仏弟子も悪人だ」と言って剣をとり、母妃ヴァイデーヒーを殺害しようとした。
この時、月光大臣とジーヴァカ(耆婆)がアジャータシャトルに言った。
「『毘陀論経』には、父王を殺害して王位に就いた者は一万八千人にも及ぶが、母を殺害するという非道な行いをするなど前代未聞
今、アジャータシャトル王が母妃を殺害なさるは王族の恥であり、我らもこの職を辞退します」と。
これを聞いたアジャータシャトルは剣を捨て、母妃を殺害することは思いとどまり、母妃を王宮深くに閉じこめて、一歩も外へ出られぬようにした。
悲しみに憔悴しきったヴァイデーヒー妃は、遠く耆闍崛山に向かって、お釈迦様に申し上げた。
「お釈迦様、どうか目連尊者と阿難尊者をわたしのもとへお遣わし下さい」と。
(この時、お釈迦様は霊鷲山にて一万二千人の前で『法華経』を説いておられたが、ヴァイデーヒー妃の声を聞き、これを中断されて座を立たれた。)
ヴァイデーヒー妃が涙ながらに遠く耆闍崛山におられるお釈迦様に向かって礼拝すると、まだその頭を上げないうちにお釈迦様は目連尊者と阿難尊者を王宮に向かわせ、お釈迦様自身も耆闍崛山から姿を消し、王宮にお出ましになったのである。
ヴァイデーヒー妃が頭を上げた時、そこにはお釈迦様のお姿があり、そのお姿を仰ぎ見たヴァイデーヒー妃は、お釈迦様の足もとに身を投げ、声をあげて泣きくずれた。
そしてお釈迦様に、「わたしは何の罪でこのような悪い子を生んだのしょうか。 お釈迦様もどういった因縁で、わが子をそそのかしたデーヴァダッタなどと親族であられるのでしょうか」と詰め寄った。
ヴァイデーヒー妃が、「どうかお釈迦様、このわたしに清らかな世界をお見せください」
と願うと、お釈迦様は眉間の白毫から光を放たれ、ヴァイデーヒー妃に、極楽世界や阿弥陀仏、観音・勢至の二菩薩を観想する13の観法“十三観”と、極楽世界に往生する者を「上品上生」から「下品下生」の“九品” に分けて説かれていった。
ヴァイデーヒー妃は五百人の侍女とともにその教えを聞いて、たちまち極楽世界の広長な光景見てこれを心から喜び、これまでにはない尊さに悟りを求める心を起して、その国に生れたいと願った。
そして最後にお釈迦様は阿難尊者に向って、「無量寿仏の御名を、常に心にとどめ続けよ。」と説かれたのである。

これが、『仏説観無量寿経』に説かれた『王舎城の悲劇』のあらすじである。
ここに登場するデーヴァダッタ(提婆達多・だいばだった)についてもふれておきたい。

2009年2月3日(火) ラージギル ( ジーヴァカの邸宅跡と果樹園跡 ) [アジア]

2555779しつこい物売り達は、バスに乗ってもまだなおバスの窓越しに商売 を続けている。
それどころか、バスが動き出してもその後をバイク自転車で追っ かけて来た。

霊鷲山のバスプールよりバスで少し走った所の道の右手に、マガ ダ国の医師であったジーヴァカ(耆婆・ぎば)の住居跡と果樹園跡 がある。
ここは、バスの車窓からのみの見学となった。

医師ジーヴァカ・コマーラバッチャは 仏教に深く帰依した人で、お釈迦様や菩薩方の 治療にもあたり、名医・医王と尊称され、アジャセ(阿闍世・アジャータシャトル)王をこの果樹園にてお釈迦様と引き会わせたことでも知られている。

2616376『涅槃経』によると、アジャセが、父ビンビサーラ王を餓死させて王位に就いた時、ジーヴァカは大臣としてアジャセ王に仕えたとされている。
しかしアジャセ王が、母ヴァイデーヒー(韋提希)までも幽閉し、父王同様に殺害せんとすると、ジーヴァカは月光大臣とともにこれを諌めたとされる。
その後アジャセ王は、自ら罪の重大さに気付いて気を病み、同時に身体にできた悪い疱瘡が、どんなに手を尽くしても改善しないことにも悩んでいた。
ジーヴァカは、「これはお釈迦様でなければ治癒できない」と言って、この時、この果樹園に滞在しておられたお釈迦様にアジャセ王をひき会わせたと伝えられる。
そしてアジャセ王は、お釈迦様の教えを聞いて自身の罪を悔い改め、以後、お釈迦様に帰依し、教団を支えたと説かれている。

<S先生の本より追記>
ジーヴァカは、お釈迦様が涅槃に入られた時に脈をとった医師であるとも伝えられている。
また、チューラパンタカ(周利槃特・しゅりはんどく)は、このマンゴー園にて悟りを開かれたと伝えられる。

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